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2019年7月30日

「予科練の歌」の二つの曲

今日の朝刊の特集記事は戦中に現在の茨城県稲敷郡阿見村に存在した「海軍飛行予科練習生」通称は予科練の訓練所だった土浦海軍航空隊、そこで予科練生として今ならパワハラとなる殴る教練という厳しいい訓練を受けていた福島県の高齢(90代)男性の話でした。

その頃の海軍は予科練生を募集するため「決戦の大空へ」というデモ映画を製作していたのですが、その主題歌を海軍から任せられたのが、作詞家の西条八十氏と、作曲家で福島県出身の古関裕而氏の二人でした。

昭和18年当時の二人の年齢は明治25年(1892)1月生まれの西条八十氏が50代、明治42年(1909)8月生まれの小関祐而氏が30代でしたが、その曲作りに困難を極め、なかなかできなかったそうです。
すでに作詞家として超有名人だった西条八十氏は詩ができていたようですが、まだ若手の小関氏のほうが作った曲に納得がいかず出来上がらなかったそうです。

そこで二人のとった行動は映画の舞台となる現場、つまり土浦海軍航空隊に行くというものでした。ところが、そこへ向かう汽車の中で小関氏はある単調でリズミカルな曲が浮かび、作曲したそうです。

到着した二人は、予科練生に同行した歌手の波平暁男氏に歌って聞かせて、最初に作ったゆったりした曲と途中の汽車中ので急遽作った曲の二つのうちの良いほうを選んでもらったそうです。

そしたら、ほぼ即答で予科練生の全員が汽車の中で作った曲が良いと選んだそうです。

それが今も残る ♪赤い血潮の予科練が、七つボタンは桜に錨・・・♪で始まる「若鷲の歌」(わかわしのうた)だったのです。

当時のことを振り返り、福島県の元予科練の男性は「あの曲には‘哀愁’があり、皆が良いと思った」と語っています。

国や海軍は戦意高揚を目的とした映画『決戦の大空へ』(昭和19年)の主題歌だったのですが、予科練生にとっては時代にほんろうされる悲しみが心底にありあり、その悲しみの心が小関氏の曲に共鳴し、一般人には「予科練の歌」として戦意高揚になるという、相矛盾した曲になったことに驚かされます。

そう言われれば、他の軍歌とは違いこの歌には何とも言えない寂しさや悲しさを感じるような気がします。

後に小関氏は戦死者への責任を感じていたそうですが、予科練生の中にはこの歌で癒されていた人が多くいたのかもしれません

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コメント

予科練はあこがれの的でした。映画は封切りと同時に見に行きました。ところが終戦になって飛行機にものれないまま復員、中学に戻ってきた生徒は、柄が悪く、あこがれるような人物ではありませんでした。

投稿: ましま | 2019年7月30日 18:16

ましまさんへ

志願するような方々ですからね。強い個性があるの人たちなんでしょうね

投稿: 玉井人ひろた | 2019年7月31日 07:40

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