カテゴリー「歴史」の86件の記事

2017年2月18日

日本に‘『鎖国』は無かった’

文部科学省は2月14日、次期学習指導要領の改訂案を発表し、そのなかでこれまで歴史の教科書で使われてきた「鎖国」という表記をやめ、「幕府の海外政策」に改めることを表明しました。

私としては、「やっと改めるのか」と言うのが正直でしたね。

「鎖国」という語が初めて使われたのは幕末の黒船来航の年知られる1853年(寛永6年)、それも幕府のお偉いさんの一部である幕閣の間で、一般人は全く知らないことだったのです。
一般に普及するのは幕府が倒れた明治時代(1868年~)以降であったことは、一昨年に私は知りました。

それを知った際に、国では2020年までに教科書から無くすという計画も知ったので、今回の報道も驚きませんでした。

鎖国と言うのは外国人から見た幕府の管理貿易の感想から出た造語であって、パスポートや入管管理局がある現在から見れば当たり前の制度、つまり日本は200年以上も先進の貿易体制をしいていたことになります。

貿易していた国家は中国、朝鮮、琉球、オランダ、スペイン、ポルトガル、記録によれば4代将軍徳川 家綱の時代、水戸の徳川光圀が結婚して2年目の28歳)ころ砂糖は1320トンも輸入されていたようです。

後にポルトガルだけが入国禁止になり、同時に入国が厳しくなったのが、‘国に鎖が在る’ように見えたようです。

私たちが習った歴史は、まだまだ変るようです。

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2016年12月19日

赤穂浪士は、総勢‘63人’で決行した!?

赤穂浪士の討ち入りの話題が少し無くなるころなので、あらためて話題にしたくなりました(coldsweats01

福島県と山形県の県境の豪雪地帯である板谷峠には、赤穂浪士のある人物の伝承が残っています。
それは播州赤穂藩の家老(末席)を務めていた「大野九郎兵衛」です。

芝居では、この人物は卑怯者として描かれることが多いですが、こちらに残る伝承では↓

>大石ら47名による吉良邸での討ち入りが万が一失敗した場合に、吉良上野介の長男で出羽米沢藩第4代藩主「上杉綱憲」(吉良家から上杉家の養子になった)や、実家である米沢藩・上杉家に移っていた吉良の正妻「富子(梅嶺院)」らが住む米沢に、吉良が逃げ込むである可能性を考え、道中となる板谷街道にあった宿場町の李平(すももだいら)にて大野を中心とした総勢16名の赤穂浪士達が「忠臣蔵第二陣」として待ち伏せていた。

しかし、大石らの討ち入りが成功したことを知り、自害をしたとされる。

米沢の板谷峠には「大野九郎兵衛供養碑」が建立されて在るようです。
http://www.yonezawa-kankou-navi.com/person/kurobee.html

この伝承からすれば、赤穂浪士の総勢は63名になります。

大石内蔵助というと討ち入りをする気配をカモフラージュして遊びほうけていたことで言う名ですが、
もしも、大野らの行動さえ「裏切り者」というカモフラージュをして計画を練っていたとしたら、討ち入りを100%どころか120%成功させる計画を立てていたことになります。

そうなると、芝居やドラマ等及びもつかない、大石の執念が感じられます。

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2016年12月12日

ちびくろサンボ

絵本『ちびくろサンボ』はヘレン・バナマンと言う人が、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本、それが1899年(明治32年)にイギリスで発刊され全世界に広まった絵本として知られています

日本でもそれは同じで、内容までは覚えていないですが、私もよく知った本です。

その本が、世界で高まった人種差別問題によって、昭和63年(1988)のきょう、12月12日に岩波書店が、「ちびくろサンボは黒人差別の書物」と判断して絶版とした日なのだそうです。

国内では、それにならって絶版が相次いだそうですが、日本政府としては「販売禁止」の処置はされなかったので、あくまでも書店だけの判断での販売取りやめだったようです。

そう言えば、このころ「それも差別?」と言うものが、いろいろと無くされたり、デザインを変えたりした記憶がよみがえりました。

カルピスのあのストローをくわえたキャラクターラベル、突然に変えられたことは私の記憶からは消えないことの一つです。

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2016年12月10日

明治以前の巨漢人物とは

明治以前の日本人成人男性の平均身長は155cmぐらいだったと言われていますから、現代では並みくらいの170cmぐらいでもかなり長身で目立つ人物だったようです。

戦国武将の代表格の織田信長は身長が約170cmだったとされますので、150cmくらいしか無かったとされる、同じく戦国武将の武田信玄、上杉謙信、そして徳川家康からは見上げるような威圧感があったことでしょうね。

明治維新以前でとても背の高い人物としては

  • 大久保利通→身長六尺(約183cm)
  • 西郷隆盛 →身長約178cm
  • 武市半平太→身長6尺(183cm)
  • 佐久間象山→身長6尺1寸(約186cm)
  • 坂本龍馬→身長約176cm
    ※龍馬の姉の乙女は180cm
  • 前田利家 →身長が約178cm(文献上は6尺・183cm)

などでですが、「巨漢」には当てはまらない、少しスマートな人たちだったようです。

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2016年10月13日

靖国問題をまた複雑にする気か?

報道によれば、亀井静香衆議院議員(無所属)、石原慎太郎元東京都知事、自民党の平沢元内閣府副大臣、民進党の原口元総務大臣、の4人は10月12日()に靖国神社を訪れ、

西郷隆盛や戊辰戦争で敗れた白虎隊や新選組、そして西南戦争で敗れた西郷隆盛などは『賊軍』の汚名を付されて靖国神社に祭られていないが、近代日本のために志を持って行動したことは、勝者、敗者に関係なく靖国神社への合祀を認めるべきだ」

と靖国神社の‘徳川康尚久宮司’に申し入れを行ったようです。

申し入れ終了後に亀井氏は集まった記者団に対し

神社側は『直ちに承知するとは言えない』ということだったが、いろいろ皆さんと相談されると思う。
靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってるので、われわれはそういう声を靖国神社に届けたい

というコメントを語ったようなのですが・・・、
なぜ今更なのでしょう?なぜ、今のタイミングなのでしょう?全く不可解な人達です。

以前、私は‘『靖国神社』に祀られている人の”誤解”’という記事をアップしました↓
http://iwasironokuni.cocolog-nifty.com/komiti/2014/08/post-9123.html

今回の4人は、この記事でアップしたようなこと、頭の良い方たちばかりなので当然承知しているのでしょう、と思いたいです。

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2016年8月31日

‘死を覚悟’の甲子園出場

何かをやろうとするとき、一生懸命にやる場合に「命がけでやる」という表現が有ります。また、スポーツの試合などには「死に物狂いで」という言い方もありますが、「死を覚悟の」となった場合はどうでしょう?
前者と後者ではその「死」に対するリアル感、重みが全く違いますよね。

今年も甲子園球場で「第‘98回’全国高校野球選手権大会」が開催されました。福島県代表の聖光学院はベスト8まで進みましたが、今回準優勝した北海高校(北海道代表)に敗れてしまいました。

さて、この高校野球大会は、大正4年(1915)に豊中グラウンドで行われた全国中等学校優勝野球大会が第1回大会とされていますので、今年で101年目ということで、本来は今年は“102回大会”というのが本来ですが、第2次世界大戦によって大会が中止された期間が有るため「98回」になっています。

戦争のため中止されたのは昭和16年(1941)~昭和20年(1945)までの各大会ですが・・・、昭和16年の第27回大会に関しては、地区予選は行われたため98回の中にカウントされています。
つまり、厳密に言うなら朝日新聞社主催の本戦は今年で“97回”大会となります。

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2016年8月27日

しょうこくみん

今朝の福島民報新聞に‘小国民’の文字を目にしました。戦後生まれの私ですが、その言葉は知っています。

国民(しょうこくみん)」は、日中戦争から第二次世界大戦(昭和12年(1937)~昭和20年(1945))、つまり戦時中に軍部を中心にして使われた、日本の子供を指した言葉です。
これは、ドイツのヒトラーユーゲントで用いられた「Jungvolk」の訳語で年少の皇国民という意味があるそうで、日本では兵隊の銃後(じゅうご=将来の兵)に子供を位置する意味で使用し始めたらしいです。

しかし、朝刊に掲載されていたものは太平洋戦争中のものとは違います。第一に「しょう」の漢字が違います。

これは、日中戦争より40~50年ほど前の明治20年代に発刊されていた少年向けの雑誌名なのでした。

小国民 しょうこくみん)」とは、
明治22年(1889)に高橋省三の学齢館から創刊された少年雑誌。初めは月刊、1周年号から月2回刊。後に「小」の字が「少」に改められ「少国民」と改題。

明治20年代の「少年園」、「少年文武」と共に、日本の近代児童文学史の草創期を代表する三大児童雑誌の一つである。

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2016年5月28日

「3本の矢」・・・は架空のお話し

広島にオバマ大統領が来訪し演説後に、安倍総理大臣も演説を行いましたが、その時にまたお得意というか口癖と言うか(?)「三本の矢」というのが語られました。

3本の矢」と言えば、なんといっても「毛利元就もうりもとなり)」が‘3人の息子たちに対して言った教え’として、あまりにも有名な話しです。

>「三本の矢」とは、“毛利元就が死ぬ間際に息子達「隆元」(長男)、「元春」(次男)、「隆景」(三男)の3人を枕元に呼んで、
1本の矢ではすぐに折れてしまうが、3本を束ねれば簡単に折れない。だから3人が力を合わせて(父亡き後も)毛利家を守れ
と遺言として聞かせた逸話から生まれた故事に由来。

ところで、この「三本の矢」の逸話ですが、毛利元就が息子に言ったというこのお話し自体が‘全く存在しない架空の話し’なのです。

毛利家には有名な家訓が有りますが、それにも三本の矢どころか「矢」の字も無いのです。

もっと詳しくやりますと・・・

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2015年12月14日

あの忠義の史の、年・月・日・時刻は?

12月といえば、毎年どこかのチャンネルで放映されるのが忠臣蔵でしょう。最近は時代劇チャンネルなどBSでは昔の映画が沢山放映されていますからさらに増えている気がします。

きょうはその討ち入りの日の「12月14日」と同じと言うことで、きょうは‘赤穂義士祭’とかのイベントがあちこち行われているそうですね。
‘赤穂浪士’の人気は、ほんとうにすごいです。

ただ、この「赤穂浪士」という言い方が定着したのは戦後の話しで、比較的新しものだということは、その呼び方があまりにも有名過ぎて知られていないことのようです。

元々は【赤穂義士】というのが普通で、「赤穂浪士」という言い方は「大佛 次郞 おさらぎ じろう)」の小説「赤穂浪士」(初版本は昭和3年(1928)に改造社から刊行)が昭和34年(1959)に同名でテレビドラマ化されてから定着したんだそうです。

大佛氏が昭和初期に『東京日日新聞』に「赤穂浪士」という題名で連載されたときは、義士が浪人にされたことでちょっとした話題になったそうですが、その点でも「浪士」の言い方が広まった気がしますね。

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2015年12月 8日

日本初の‘児童福祉法’

昨日の記事に関連して、5代将軍の徳川綱吉についての考察です。

この将軍は「生類憐みの令」というものを出したがために、後世でも批判される人物になっていますが、この悪名は次期の6代将軍「徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)」になってから、その側近の学者の新井白石らによって作られたものらしいのです。

徳川 家宣は当時としては高齢の50歳近くで将軍となったため将軍在籍はたったの3年間(1709年 - 1712年)で、直ぐに7代将軍に変ったのですが、こちらはまだ幼く新井白石らは継続して、悪名のレッテル張りがなされたのかもしれません。

記録によれば、この令で処刑された者も無く、武士はかなり影響が有ったようですが、庶民はそれほど重要視していなかったことのようです。

これは、学者らが己の方が優れていることを誇示するために行われた工作のようですが、その実では綱吉の「生類憐みの令」の内容は殆どがその後も使用されていたのです。

そして現在、「生類憐みの令」は「児童福祉法」の中に生きているのです。言い換えれば、この悪名高い‘令’は日本最初の「児童福祉法」とも言え、非常に進んだものだったことになります。

この令の最初に出てくるのが、捨てられた赤ちゃんについて書かれていることでも、児童福祉法に通じる片鱗が伺えます。

昔の歴史には、後世に創作された政治的思惑の、意図的な誤解が非常に多いことに、ほんとうに驚かされます。

 

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