カテゴリー「歴史」の92件の記事

2017年9月17日

下世話な噂では、あの佳子様が

毎年、9月1日に福島県の郡山市安積町牛庭地区では「水祭り」と称する祭礼がおこなわれています。

その際例が行われる神社の名称は[大久保神社]というものですが、その大久保とは明治政府で内務卿(現在の総理大臣)と言う要職についていた「大久保利通」です。

つまり、この神社の祭神は大久保利通公なです。とても珍しいというより、国内で唯一の神社でしょうね。

これは、日本遺産になっている「安積疏水」の計画に大きな役割を果たした大久保利通の遺徳を永く伝えようと、この地に明治22年に建立されました。

大久保利通は廃藩置県で収入を無くした全国の武士を憂い救済計画を行いました。その一環として移住開拓があり、その一つが安積開拓だったのです。

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2017年9月13日

‘我輩’の命日

写真家の岩合光昭さんの「世界猫歩き」が火付け役となって、現在猫ブームが起こっていますが、もともと猫を飼っている私などにとってはちょっと迷惑なブームという思いです。

ところで、猫が主役の小説として有名なものに明治の文豪「夏目漱石」が書いた『我輩は猫である』というのが、私の中で一番に思い浮かぶものです。

我輩は猫である。名前はまだない・・・

この書き出しは、川端康成の小説「雪国」の「トンネルを抜けると、雪国だった・・」という書き出しと並び、あまりにも有名なものですね。

ただし、雪国のほうは、『トンネルを抜けると、そこは雪国だった』と言うふうに、間違って覚えている人が非常に多い作品でもあります。

さて、話しは「我輩は猫である」に戻りますが、この主人公の猫は小説の最後は水瓶に落ちて溺死するという悲惨な結末になっていて、別の意味でわたしには印象に残る小説になっています。

瓶から出ようともがき、最後に力尽きて沈んでいく猫の思いを描いた描写は、人が溺死するときの思いが想像されとても哀れです。

この小説の猫は、実際に夏目漱石が飼っていた猫がモデルだそうですが、その猫が実際に死んだのが明治41年(1908)9月13日だったそうです。

つまり、きょうがこの我輩ネコの命日になるわけです。合掌です。

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2017年8月12日

「君が代」と「パソコン」

明治26年(1893)のきょう8月12日、文部省が「小学校儀式唱歌用歌詞並楽譜」という訓令を布告し、『君が代』、『一月一日』、『紀元節』等の合計で8曲が小学校の祝日・大祭日の唱歌に定められた日なんだそうで、8月12日は「君が代記念日」になっているそうです。

そして偶然にも、昭和56年(1981)の同じく8月12日、アメリカのIBM社が、ニューヨークにある高級ホテル「ウォルドルフアストリアホテル」のボールルームを借り切って、世界最初のパソコン→「IBM Personal Computer 5150」を発表・発売した日なんだそうです。

それから現在のパソコンやIT機器が存在しているわけですから、その進化の速さに改めて驚かされます。

「君が代」については、その後二つの世界大戦を経て慣例として国歌となっていきましたが、小渕内閣の時に国歌と国旗を正式に定めようとする案が出され、強い反対意見もありましたが平成11年(1999)8月13日に「国旗国歌法」(『国旗及び国歌に関する法律』)が成立し、「君が代」及び「日章旗」は改めて現行憲法下でも正式に日本の国歌・国旗として確定されました。

賛否は別として、考えてみればこのころから自民党には「憲法9条」の改訂」などの考えを持つ議員の意見が増え始った気がします。

ちがったかな(?)

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2017年5月 7日

‘和紙’で作られた‘鯉のぼり’

5月5日にアップした記事「皐月の初の馬の日」に頂いたコメントで、「紙製の鯉のぼり」について「あれ?」という思いに駆られたのが在りまして、さらに詳しい内容をアップしたいと思います。

私の地域では昭和40年代ごろまで、鯉のぼりの生地には2種類が定番でした。

  • 和紙の生地』・・・色も悪く、紙なので雨や風にもとても弱い。しかし、とても安価なので求めやすく、ほとんどの家ではこれを買い求めるのが常識だった。
     
  • 木綿の生地』・・・丈夫だが高額のため(金持ちじゃないと)なかなか買えなかった。ただし、雨に遭うと色落ちするので取り込まなければならない

我が家では、もちろん紙のだったのですが、実は私が生まれたときはわが家がひどく貧しかったため、母が実家の親(祖母)に「ミルクを買うから、鯉のぼりじゃなくお金にして」と願ったため鯉のぼりは無かったそうです。

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2017年4月10日

理解するが、承認とは言えない

安倍晋三総理は7日午後、トランプ米大統領のシリア攻撃に対し↓

  • 「米国政府の・・・の決意を‘支持する’
  • 「米国の行動は、・・・と‘理解している’

と言うコメントを発表しましたが、日本は特になのかもしれませんが政治の世界ではこのように「理解」とか「支持」という言葉をうまく利用すると思います。

  • 支持 → 賛成しかねるが反対もしない場合
  • 理解 → 認めないが否定もしない場合

日本政府は昭47年(1972)9月25日田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として「中華人民共和国」の首都である北京市を初めて訪問し、中華人民共和国政府との国交を正常化したときの「日中共同声明」にもその手法が使われました。

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2017年4月 8日

新聞統制

新聞統制(しんぶんとうせい)は、新聞社の統合及び新聞の統制団体設置を目的として策定され、内務省そして新聞統制団体『日本新聞会』と内閣情報局を中心として昭和13年(1938)より始まり昭和17年(1942)末に完成した、国家の言語統制作戦の一つです。

いわゆる、一つの県には一つの地元新聞社だけに統一して国の政策に反対するメディアを監視しやすくするという「一県一紙制度」のことです。

この政策の国の表向きの理由は『新聞社の統合によって紙・インクなどの物資と人的資源の節減するため。』としていたようです。

なぜなら、強制統合させる法律が無かったからだそうです。

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2017年2月18日

日本に‘『鎖国』は無かった’

文部科学省は2月14日、次期学習指導要領の改訂案を発表し、そのなかでこれまで歴史の教科書で使われてきた「鎖国」という表記をやめ、「幕府の海外政策」に改めることを表明しました。

私としては、「やっと改めるのか」と言うのが正直でしたね。

「鎖国」という語が初めて使われたのは幕末の黒船来航の年知られる1853年(寛永6年)、それも幕府のお偉いさんの一部である幕閣の間で、一般人は全く知らないことだったのです。
一般に普及するのは幕府が倒れた明治時代(1868年~)以降であったことは、一昨年に私は知りました。

それを知った際に、国では2020年までに教科書から無くすという計画も知ったので、今回の報道も驚きませんでした。

鎖国と言うのは外国人から見た幕府の管理貿易の感想から出た造語であって、パスポートや入管管理局がある現在から見れば当たり前の制度、つまり日本は200年以上も先進の貿易体制をしいていたことになります。

貿易していた国家は中国、朝鮮、琉球、オランダ、スペイン、ポルトガル、記録によれば4代将軍徳川 家綱の時代、水戸の徳川光圀が結婚して2年目の28歳)ころ砂糖は1320トンも輸入されていたようです。

後にポルトガルだけが入国禁止になり、同時に入国が厳しくなったのが、‘国に鎖が在る’ように見えたようです。

私たちが習った歴史は、まだまだ変るようです。

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2016年12月19日

赤穂浪士は、総勢‘63人’で決行した!?

赤穂浪士の討ち入りの話題が少し無くなるころなので、あらためて話題にしたくなりました(coldsweats01

福島県と山形県の県境の豪雪地帯である板谷峠には、赤穂浪士のある人物の伝承が残っています。
それは播州赤穂藩の家老(末席)を務めていた「大野九郎兵衛」です。

芝居では、この人物は卑怯者として描かれることが多いですが、こちらに残る伝承では↓

>大石ら47名による吉良邸での討ち入りが万が一失敗した場合に、吉良上野介の長男で出羽米沢藩第4代藩主「上杉綱憲」(吉良家から上杉家の養子になった)や、実家である米沢藩・上杉家に移っていた吉良の正妻「富子(梅嶺院)」らが住む米沢に、吉良が逃げ込むである可能性を考え、道中となる板谷街道にあった宿場町の李平(すももだいら)にて大野を中心とした総勢16名の赤穂浪士達が「忠臣蔵第二陣」として待ち伏せていた。

しかし、大石らの討ち入りが成功したことを知り、自害をしたとされる。

米沢の板谷峠には「大野九郎兵衛供養碑」が建立されて在るようです。
http://www.yonezawa-kankou-navi.com/person/kurobee.html

この伝承からすれば、赤穂浪士の総勢は63名になります。

大石内蔵助というと討ち入りをする気配をカモフラージュして遊びほうけていたことで言う名ですが、
もしも、大野らの行動さえ「裏切り者」というカモフラージュをして計画を練っていたとしたら、討ち入りを100%どころか120%成功させる計画を立てていたことになります。

そうなると、芝居やドラマ等及びもつかない、大石の執念が感じられます。

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2016年12月12日

ちびくろサンボ

絵本『ちびくろサンボ』はヘレン・バナマンと言う人が、自分の子供たちのために書いた手作りの絵本、それが1899年(明治32年)にイギリスで発刊され全世界に広まった絵本として知られています

日本でもそれは同じで、内容までは覚えていないですが、私もよく知った本です。

その本が、世界で高まった人種差別問題によって、昭和63年(1988)のきょう、12月12日に岩波書店が、「ちびくろサンボは黒人差別の書物」と判断して絶版とした日なのだそうです。

国内では、それにならって絶版が相次いだそうですが、日本政府としては「販売禁止」の処置はされなかったので、あくまでも書店だけの判断での販売取りやめだったようです。

そう言えば、このころ「それも差別?」と言うものが、いろいろと無くされたり、デザインを変えたりした記憶がよみがえりました。

カルピスのあのストローをくわえたキャラクターラベル、突然に変えられたことは私の記憶からは消えないことの一つです。

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2016年12月10日

明治以前の巨漢人物とは

明治以前の日本人成人男性の平均身長は155cmぐらいだったと言われていますから、現代では並みくらいの170cmぐらいでもかなり長身で目立つ人物だったようです。

戦国武将の代表格の織田信長は身長が約170cmだったとされますので、150cmくらいしか無かったとされる、同じく戦国武将の武田信玄、上杉謙信、そして徳川家康からは見上げるような威圧感があったことでしょうね。

明治維新以前でとても背の高い人物としては

  • 大久保利通→身長六尺(約183cm)
  • 西郷隆盛 →身長約178cm
  • 武市半平太→身長6尺(183cm)
  • 佐久間象山→身長6尺1寸(約186cm)
  • 坂本龍馬→身長約176cm
    ※龍馬の姉の乙女は180cm
  • 前田利家 →身長が約178cm(文献上は6尺・183cm)

などでですが、「巨漢」には当てはまらない、少しスマートな人たちだったようです。

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