‘失ったものを数えるな 残されたものを最大限に活かせ’
1948年ロンドンにある「ストーク・マンデンビル病院」で第二次世界大戦で半身不随になった兵士達の心身ともにリハビリの目的のため車椅子での競技大会が行われました。
提唱実現したのはドイツから亡命していたユダヤ系人のルードヴィッヒ・グッドマン博士で大会名は病院の名にちなんで「ストーク・マンデンビル競技大会」と呼ばれました。
その後競技会は1952年に「国際ストーク・マンデンビル競技大会」が開かれます(但し参加したのはイギリスとオランダの2カ国だけ)。
そしてローマオリンピック開催(1960)が決まったときに「オリンピックに出られずともそこで国際ストーク・マンデンビル競技大会やろう」となり、初めてオリンピックと同国開催を実現します(IPCではこのローマ大会を第1回パラリンピックとしている)。
次の年の東京オリンピック(1964)では初めてルードヴィッヒ・グッドマン博士が名づけたparaplegia(半身不随・麻痺)とオリンピックを足した造語「パラリンピック」が使われます。
しかし、この名はIOC(国際オリンピック委員会)から「オリンピックと紛らわしい名称を使うことは認められない」ということで「パラリンピック=愛称」ということで使われていきます。
そのため「国際ストーク・マンデンビル競技大会」と「国際身体障害者スポーツ大会」の合わさった大会というのが正式名称となっています。
その後IOC会長に「サマランチ氏」が就任するとこの「パラリンピック」を認めることになり、1985年(昭和60)はれて大会正式名称が「パラリンピック」となります。
正式名称になってから最初の大会が「ソウルオリンピック(1988)」になりました。
それを期にパラリンピックの意味は「Parallel(平行、同時進行)とオリンピック」の造語になり「もう一つのオリンピック」ということになりました。
1989年にはドイツにIPC(国際パラリンピック委員会)本部が設立されました
IPCはIOCにも委員を置かれるようになり、今回の北京オリンピックで初めてIPC、IOCの協力開催が実現したのです。
そのうち、一つになっていくかもしれない国際競技大会に位置づけられた証です。
わが国にもJPC(日本パラリンピック委員会)があるのですが、これは独立法人ではなく厚生労働省が管轄する「財団法人日本障害者スポーツ協会」の一部の部署に過ぎません。
そのため日本国内ではJOC(日本オリンピック委員会)=文部科学省管轄、JPC=厚生労働省管轄になっていて、いまだに「リハビリ目的の障害者大会」扱いとなっています。
世界との考え方が10~20年ほどずれてしまっています。恥ずかしいことです。
「失ったものを数えるな 残されたものを最大限に活かせ」(グッドマン博士の言葉)
最大限に活かして競技する選手たちのために、はやく独立法人の設立を望みたいものです。
できればその管轄をJOCとおなじ文部科学省になってきたら・・・難しいですね()
※、良かったら「デフリンピック」という国際大会をサーチしてみてください。う~ん!となってしまいますよ
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