国産初旅客機‘YS-11’は日本軍戦闘機の結晶
きょう、7月11日は戦後初めて日本国産の「旅客機」が完成した日だそうで、その旅客機名「NAMC YS-11」から「YS-11(ワイエスいちいち)の記念日」になっているそうです。
製造したのは昭和34年通産省主導でできた「日本航空機製造株式会社」で、会社が発足してから3年後の昭和37年(1962)7月11日の完成したのが純国産旅客機YS-11なのです。
この完成した純国産旅客機YS-11は疲労耐久テストを20万回も繰り返すという前代未聞のテストを繰り返したためさらに3年後の昭和40年まで本格始動と生産を待つことになります。
私の興味はその国産旅客機の設計を担当したそうそうたる設計者達の顔ぶれです。
<堀越二郎氏>~新三菱重工勤務
戦時中、米英から「オスカー」の暗号で呼ばれ恐れられた日本帝国海軍が誇る高性能戦闘機「零式艦載機」=通称「零戦(ぜろせん)」の設計者<太田 稔氏>~富士重工勤務
戦時中は米英から「ジーク」の暗号で呼ばれ零戦と同じく恐れられた日本帝国陸軍自慢の高性能戦闘機「一式戦闘機」=通称「隼(はやぶさ)」の設計者<菊原静男氏>~新明和工勤務
戦時中はその当時世界最大だったアメリカのB-29爆撃機に匹敵する大きさと戦闘能力、さらに高い防御力を持ち、「B-29、B-25爆撃の天敵」として米英から最も恐れられた日本帝国海軍の世界最大飛行艇爆撃機「二式飛行艇」=通称「紫電(しでん)」の設計者
(※、今現代でもこれより大きい飛行艇爆撃機は存在せず今もって世界一だとか・・)<土井武夫氏>~川崎重工勤務
戦時中は日本で唯一「液令式エンジン」をもち陸軍では最も早い最新鋭戦闘機であったが、最新鋭過ぎて整備ができるものがほとんどいなかったことや、シルエットも斬新なものでアメリカでは「外国のコピー機」とか勘違いされたり、日本軍からは「敵機」だと誤認され撃たれたりと悲運の戦闘機でもあった三式戦闘機=通称「飛燕(ひえん)と五式戦闘機の設計者
このような、その当時世界最高レベルの飛行機設計者が携わったことに驚かされますし、その方たちが昭和30年代後半ごろに各製造会社でまだ現役だったとに驚きました。
さらに、その時代(昭和34年~37年)にすでに私が生まれていたこと、亡き祖父も、亡き父、亡き叔父や叔母たちも生きていたことに何とも不思議な気持ちがしています。
戦後生まれの私が戦前の戦闘機設計者と同じ時間・時代を共有していることに、「大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)はそんな昔じゃないんだ」と、いまさらながらに思いしらされることになった「YS-11の記念日」でした。
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コメント
初めて知りました、国産初の旅客機が実は、日本軍戦闘
機の結晶ということを・・・・。
その昭和34年から昭和37年の間に日本国産初の旅客機が
作られたそうですが、その設計、製造に携わった人達が
軍用機の設計、製造に携わっていたのですねーーー。
まだ現役だったということ、わたしも驚きました。
第二次世界大戦、昔のようで昔とは言い切れないものが
ありますね。
投稿: 浜辺の月 | 2009年7月13日 (月曜日) 14:29
)浜辺の月さん
わたしも知って驚きました。
敵国に恐れられた戦闘機の設計者は「戦犯」にはならなかったんですね。
投稿: 玉井人ひろた | 2009年7月13日 (月曜日) 17:05
桜花の基礎設計をした木村秀政氏も携わっていたと聞いています。YS-11は軍用機並みの頑丈な飛行機だったようで、セールス的には苦労されたようですね。
こういった、かつての軍事開発から平和利用されるというのは本当に技術者としての本望なのではないかと思います。
投稿: 秋ぎつね | 2009年7月15日 (水曜日) 19:28
)秋ぎつねさん
SF小説「時空の旭日旗」に出てくる桜花、小説では無人誘導ロケットに改良されていますが実際に有ったんですね。
いずれにしても設計者たちの外国への技術アピールもあったかもしれません
投稿: 玉井人ひろた | 2009年7月15日 (水曜日) 19:45