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2011年2月 5日

江戸時代のころの「節分」には有って、今は無いもの

以前にも何度か記事にしましたが、節分は元々立春立夏立秋立冬の前日の大節季をさす言葉なので年に4度(合計4日)有ってそれぞれ大切な日として様々な行事が行われていたものでした。
ただ、その中でも一年の厄を払い新しい歳に福ノ神を迎える儀式として最初に訪れる春の節分が特別な意味を持っていたので、江戸時代以降は「節分」と言えばほぼこの立春前日の節分を指す事が多くなったものです。

我が家の節分の事始は、まず「豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿す」と、言うのをやりますが、これは今でもやっている地域が多いかもしれません。

これは、江戸時代の節分にも行っていたようです。

さて、それから江戸時代の人々は何をやっていたか?「えっ!、今と違う」と、ちょっと驚きますよ。

実際は大店のお金持ちの家と一般庶民とでは少し違いますし、江戸時代も前期と後期では違っていますが、江戸町人の節分行事の主たるものを記載してみましょう。

  • お金持ちの家では里芋、大根、牛蒡、焼豆腐、黒豆、高野豆腐、蓮根の煮物、田作りの重と数の子などの「おせち料理」を肴に酒を酌み交わすのが吉例とされ、
    一般庶民もそれに近いご馳走を食べた
  • そして「年越しそば」を食べる
  • 豆まきは、一般家庭では“無し”

お節料理は現在お正月の料理を指す言葉になっていたりしますが、言葉自体が元々は「御節供料理」で節句、節分、春・秋分、夏至、冬至神仏へ御供えした料理の総称ですから、節分に食べた料理もおせち料理になります

豆まきはそもそも1230日の大晦日(旧暦には31日が無い)の神社やお寺だけの行事で、人々が豆を求めて大勢集まったようです。

それではなぜ節分に豆まきをするようになったかは、諸説あるのですが最も主な要因になったのは、太陽暦を使うようになってから今年のように旧暦の大晦日・元旦と新暦の節分・立春がほぼ同じくなることが多く、大晦日の行事を旧暦でやるとちょうど節分と重なったことに由来するようです。

いずれにせよ、豆まきは中国の「鬼遣い(おにやらい)」という行事が伝わった「鬼払い」の宮中行事で、「追儺(ついな)」というものだそうです。

>古来宮中では12月30日(年によっては29日)の大晦日に「追儺(ついな)」という行事である‘鬼払い’の儀式が行われていた

その行事は・・・
 平安時代、鞍馬山から都に鬼が出没して荒らしまわったのを、祈祷により鬼の棲む穴に封じ、3石3升(
1石=10斗=百升)の‘炒った大豆’で鬼の目を打ち潰して災厄から逃れたという故事にのっとったものであると言われる。
(故に今でも地域によっては豆撒きの時に「鬼の目をぶっ潰せ」などの言い方をするところが残っている)

豆を炒る理由は、生の大豆だと春に芽(め=目)が出る。それは鬼が生き返ることへの怖れなどに繫がったと思われる(「炒り大豆」は既に飛鳥時代には使われたという記録が残されている)。

豆(まめ)の言葉には鬼の目や魔物の目「魔目(まめ)」に通じ、これを撃ち潰して鬼や魔物を滅ぼす「魔滅(まめ)」にも通じる言葉であり、さらに穀物には強い生命力と魔除けの呪力があると信じられていたことから、邪気を追い払い無病息災や五穀豊穣を祈願する大切な行事となった。

それがお寺や神社でやるようになって全国に広まっていき、江戸の中期以降から庶民もやるようになったのが現在のものだそうです。

ただ、庶民にはこのころ豆を使った「豆占い」というその歳を占う行事はあったようで、それの習慣も合わさって豆まき習慣ができたようです

またまた、中国伝来、昔から“いろいろ”と関わる国です。良し悪しは別として

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コメント

こんばんわ。
( ̄へ ̄)う~ん、確かに。
「江戸時代には、豆まきを行っていた」と言う話は、聞いた事がありました。
それに、現在は「豆まき」は、一般家庭でやっている光景は見た事がないですね。
ただ、「芸能人達の神社での豆まき」なら、テレビで見た事がありますよ。
あれは、毎年「2月3日」に、必ず行われていますね。

投稿: H.K | 2011年2月 5日 22:21

H.Kさんへ

H.Kさんらしいですねえ。コメント内容が本文と逆です

投稿: 玉井人ひろた | 2011年2月 5日 22:40

うちは義母が教えてくれたようにしています
年末の年越しと同じ料理が
大根と人参入れた煮物と
いわしの丸干しを焼く
白いご飯 以上を仏壇と神様にお供え

節分だけはそれに
黒豆をいって枡にいれ主人が豆まき

このあたりも節分のいわしとして干物売っているが
今は恵方巻きが人だかりでした。
テレビのせいでしょうね。昔はなかったから

投稿: kiyoka | 2011年2月 6日 07:17

kiyokaさんへ

恵方といいうが重んじられたのはお正月の初詣だったようで、恵方寺社詣でをしていたようです。
恵方まきは比較的新しく大阪などのごく一部の習慣だったんですが、バレンタインのチョコ並みに業者の戦略に乗ったものですね。
我が地域も恵方巻きを食べる習慣は有りません

投稿: 玉井人ひろた | 2011年2月 6日 08:42

貧しい時代、本当にみんな豆をまいたんでしょうかねえ。戦後、子供の私達は親が巻いてくれた豆を食べたものでした。勿論家の中ですけど。

投稿: 山口ももり | 2011年2月 6日 16:44

なるほど節分とは年4回あるんですね!

勉強になりました^^

投稿: はーパパ | 2011年2月 6日 16:55

山口ももりさんへ

穀物で大事な食べ物を実を切る思いで願いを込め撒いたのかもしれません
 
 
はーパパさんへ

そうなんですよ。ちゃんと4節あるんですねえ

投稿: 玉井人ひろた | 2011年2月 6日 17:00

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