原爆反対を必死に訴えたGHQ司令官が存在した
きょうは長崎市に初めてプルトニウム型原子爆弾が投下された日であります(広島はウラニウム型)。
それでも爆撃にはとうに慣れっこになっていた日本は原爆などでもまったく臆することなく終戦など考えなかったどころか、かえってアメリカに敵意を燃やし「本土決戦」を覚悟し必死に戦いを続行しようとしますが、
和平協定を結んでいたはずのロシアが突然日本進行と言う裏切り行為に出たことで立場が四面楚歌であることに気づき、やむなく停戦、そして「国体堅守」という最大の“条件付き降伏”をします。
その後アメリカの占領軍=GHQの統治下におかれることになりました。
そのGHQの司令官のなかに長崎での原爆の想像を絶する惨劇と地獄絵を目にして、ただ一人アメリカ政府に向かって「二度と原爆を使ってはいけない」と、たった一人で原爆使用反対を必死に訴え続けた人物が存在したことが、8月8日放送の「NHKスペシャル」で知りました。
その人物とは、GHQの長崎軍政部司令官ビクター・デルノア(Victor Delnore)米国陸軍中佐でした。戦後およそ3年にわたって、同司令官を務めた人物です
このビクター・デルノア氏は長崎市の司令官に配属された際、すでに戦争が終わっていたので‘お気楽モード’というか、楽な仕事として考えていたようで妻子同伴で日本に来ました。
ところが、長崎で目にしたのは自国が行った悪魔のような仕業だったのです。そのショックは想像を絶するものだったと思われます。
それはたかが軍隊の一中佐が軍本部やアメリカ政府に「原爆反対」という反逆行為を指せたことが証です。
でもその行為や書簡はすべてアメリカに却下されたようです。その占領期の長崎の実相を明らかにする書簡類が、アメリカの民家でこのほど大量に見つかったということから番組は開始され、その長崎赴任中に長崎で誕生し、長崎の教会で洗礼を受けた同氏の娘が初めて自分が生まれた地を訪ね歩くという設定で番組は進行していきました。
同氏が肌身離さず持っていた長崎の教会の絵、それを娘に託して、13年前、84歳でこの世を去ったそうです。
同氏は、もうすでに70歳ほどになったその娘が誕生したとき「ナガサキベイビー」と呼んで長崎復興のシンボルでも見るかのように歓喜したそうです。
そして昭和23年、第1回、長崎平和祈念式典を計画したときに快く許可したのは当然で、式典を積極的に盛り上げ長崎市長などと親交を深め帰国していったそうです。
帰国後も政府に「二度と原爆を使ってはいけない」を訴え続けたのはもちろんでしたが、すべて却下されたまま人生を終えたようです。
凄い人物だと思うでしょうが、そういう思いにさせるだけの惨劇、一般人大量虐殺の悪魔の行為を目の当りにしたら居てもたっても居られなかったのでしょうね。
こんな人物がたくさん歴史に飲まれているんでしょうね。日本でも
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コメント
こういう善業を積む人たちを葬る行為は,その国の歴史がどう終焉するのか,予想させるものであります。
こういうことでもしないと,国家というものが存在できないのでしょうか。
国民が不在の国家なんて…。
投稿: ケンヂ | 2011年8月 9日 20:33
ケンヂさんへ
アメリカの場合、連邦国家で人種も多く複雑怪奇なところがありますね
投稿: 玉井人ひろた | 2011年8月 9日 20:39
こんにちは。
私は番組を視聴はしておりませんでしたが、すごく複雑な気持ちにされました(これが現実なのか)と!。
一般的に戦後は遠くなりけり・・・といいますが、今回の原発事故で逆に近づいたような気さえします。まだまだ検証する事が沢山ある様な気がしてきました。
投稿: えちご | 2011年8月10日 15:42
えちごさんへ
私も冒頭部分は見過ごしたんですが、アメリカと日本国内との教え方の差の大きさも番組では紹介され、そうなった理由をこれまたアメリカの歴史学者が冷静に分析し「アメリカの事情が事実を曲げた」とはっきり伸べていました
投稿: 玉井人ひろた | 2011年8月10日 18:54
この番組しっかり見ました。大変存在感のある、考えさせられる番組でした。特にまだご存命の当時の日本人軍人3人のインタビュー。90才を過ぎても気品すら感じる応対でした。広島に原爆を落としたと同じ飛行機が日本へ飛来することを5時間も前に検知した、無線担当の兵士。すぐ上官に報告します。一方、長崎のすぐ近く大村飛行場では数少ない紫電界を整備して待機していた飛行士。しかし、B29迎撃の命令はおりませんでした。当時大本営は延々と午前会議を続けていたのです。
「悔しいと言ったらありゃしない・・・・日本って、こういう国なんでしょうねえ」と憮然と言われた言葉が印象的でした、。誰も、真っ向から責任を取らない無能のトップ。戦後ヒタ隠しに隠された責任の所在。今の日本を振り返って案じないではいられません。
投稿: 山口ももり | 2011年8月11日 09:30
山口ももりさんへ
その部分は見ていませんでした。
ただ言えるのは海軍の戦闘機である「紫電・改」は6000メートルまでが戦闘可能高度でしてアメリカ陸軍のB29が飛ぶ10000メートル上空では歯が立たないことも上官は知っていての迎撃命令無しだったかもしれませんよ。
投稿: 玉井人ひろた | 2011年8月11日 12:43
この番組は見ていませんでした。
ビクター・デノアルさんのような人もアメリカには
いるにはいたのですね。
大多数のアメリカの人々は戦争終結には、原爆投下は
絶対必要だったと言っていましたね。
でも、日本の軍部が原爆を広島と長崎に投下されても
まだ戦う気満々だったのも驚きです。
8月15日に戦争が終わって本当によかったです。
ただ、原爆、これは悲惨ですねーーー。
わたしも長崎の原爆資料館に行きました。
大体戦争を終結するためだけに何故2度も原爆を
投下させる必要があったのかは分かりません。
投稿: 浜辺の月 | 2011年8月13日 01:38
浜辺の月さんへ
一つ一つ戦後教育で間違ったことを教えられたことを書いてみます
>ビクター・デノアルさんのような人もアメリカには
いるにはいたのですね
終戦直後からアメリカからは2万人以上もの民間ボランティアが来日し戦争被害者の救済を行っています
>大多数のアメリカの人々は戦争終結には、原爆投下は
絶対必要だった
これはアメリカ政府が必死に国民に本当のことをかくし原爆投下が正当なことだったと教育したからです。
当時のアメリカ人には疑問の声がたくさん上がったのです
>日本の軍部が原爆を広島と長崎に投下されても
まだ戦う気満々だったのも驚き
軍部だけではなく、広島市民、長崎市民が改めてアメリカへの敵愾心を強めたそうです。
投稿: 玉井人ひろた | 2011年8月13日 07:03
B29の飛行高度と「紫電・改」のはなしは番組中でもでました。届くといってたけどなあ???
投稿: 山口ももり | 2011年8月24日 09:53
山口ももりさんへ
はい、間違いなくなんとか届きます。しかし、届くだけで戦闘行動ができないんですよ。速度なんか半減して、パイロットは寒さで動けない状態です。
投稿: 玉井人ひろた | 2011年8月24日 13:43