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2013年11月28日 (木曜日)

‘霜’将軍

このところの一段と寒くなった風などを体感しますと、「「冬将軍の到来か?」という言葉が出始めます。
なんとも日本的なことばだと感じますよね。ところがこの「冬将軍」とはヨーロッパで出来て流行し日本に伝わった言葉なんです。

時は西暦1812年のこと
 日本では文化9年にあたり、幕府は11代将軍「徳川家斉(とくがわいえなり)の時代で、老中には白河藩(現在の福島県白河市とその周辺)で今でも名君と伝えられている藩主松平定信が任じられていました。
(※、松平定信⇒白河市に有る日本最古の公園「南湖公園」を作ったり、場所が不明になっていた「白河の関」を探し出したり、身分にこだわらず万民の暮らしを良くすることに努めた人物として、今に伝えられている。)

その他有名人と言えば「間宮林蔵」や「杉田玄白」なども活躍していた華やかな時代です。

そんな穏やかな日本国内と違って、このころのヨーロッパでは大きな戦争が東西で起きていました。
西ではイギリスとアメリカが戦争、東ではフランスのナポレオンがロシアへ攻め込んでいたのです。

今回の話しの中心はそのナポレオンが率いるヨーロッパ最強フランス軍と、ロシア軍との闘いです。

ロシアは殆どが湿地帯で、夏は人などが移動するには大変な土地柄です。
ですから名将であるナポレオンは湿地帯が凍結して軍が移動しやすい寒い季節に軍を進行させました。
ロシアは、ナポレオンの最強フランス軍の攻撃をかわし移動、モスクワが占領されても戦闘には持ち込みませんでした。
その年は、冬の訪れが早く、夏装備のナポレオン軍は、10月にはもう兵士が戦闘できなくなり撤退を余儀なくされます。
さらに撤退を始めたフランス軍は兵站(へいたん)線が伸びきって、防寒服や食料、弾薬の供給が間に合わず、大軍を維持することができなくなってしまったのです。

そこを待ちかねたロシア軍が攻め込んだものですからナポレオン軍はたままりません。反撃もできず敗退することになります。

最強のナポレオン軍の敗退は、ヨーロッパのマスコミの最高のニュースのネタになったことは当然です。

そこで出たのが「ナポレオン軍は‘General Frost’に負けた、打ち破られた」というようなキャッチコピーです。

「General Frost」とは、「Genera=将軍、Frost=霜、寒気」というもので、直訳すれば「霜将軍、寒気将軍」という英語のようです。

それを誰が和訳したのか不明だそうですが、日本では「冬将軍」と訳されて、今日までに至ったわけです。実にうまいとしか言いようがない和訳でしょう。

ロシアの「冬将軍」はナポレオンの敗退からおよそ130年後の第二次世界大戦でもヒトラーのナチスドイツ軍を打ち破ぶりました。

もしかすると、史上最強の将軍でしょうか?、その史上最強の冬将軍はロシアの西側だけじゃなく、日本がある東側にもやってくるのですから、困りものですよね。

日本歯は、攻め込んでいないのに、勝手にやってきますよね。

だから、福島県ではそれを利用して「凍み豆腐」、「凍み餅」、「寒晒し蕎麦」、「あんぽ柿」など・・を作っちゃいました。

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コメント

8月にシベリア鉄道に乗って、バイカル湖畔とかイルクーツクからモンゴルとの国境、ナオーシキという駅まで移動したことがあります。その時は「大黒屋光太夫」が、なぜ、最悪の季節の冬に大移動したのか、こんなにうつくしい所やのに、と、不思議におもったのですが、実は夏は蚊の大発生や湿地帯で移動できなかったのでした。湿地帯がカンカンに凍り付くからこそ移動できたんですね。ナポレオンのことは知らないのですが、いつの時代も人間の移動距離の長さには驚きます。

投稿: 山口ももり | 2013年12月 6日 (金曜日) 09:20

山口ももりさんへ

日本の縄文人たちは、太平洋を渡って南米まで行っていたようですから、古代から移動距離はすごいようです

投稿: 玉井人ひろた | 2013年12月 6日 (金曜日) 14:14

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