福島県民が初めて見た‘飛行機雲’
昭和20年、雪も融け若葉が芽吹きだし春めき晴天で青い空が美しかったある日、我が村の上空に未だかつて見たことが無い‘長い長い帯状の雲‘が現れたそうです。
母の祖母、私にとっては曾祖母が、それを視て叫んだそうです。「悪いことが起こる前兆だぞ」
その雲は、アメリカ陸軍が飛ばした大型爆撃機B29が発する飛行機雲だったことは、終戦後かなり過ぎてから母は知ることになりましたが、誰も見たことが無い飛行機雲に嫌な予感を感じた曾祖母の勘は、図らずも当たることになります。
福島県郡山市在住だった「小川知次氏(故小川欽一氏(元郡山消防団団長)の父)」が記録した文章です。
昭和20年4月12日 午前9時5分警戒警報あり。
情報「関東東北より進入せる敵機は福島県南方洋上北進中なり」。
二報「敵機は福島県東方洋上旋回中なり」
三報「敵機は東方へ脱去せり」
午前9時55分警戒警報解除せり。
午前11時20分警戒警報発令。
同11時25分空襲警報、同時に敵機北方より9機郡山上空に進入、爆弾数発。保土ヶ谷工場へ投下せり。
約5分後、東方より11機、13機、9機、13機、9機、13機、11機と7回にわたる、梯団式5分置き進入。
富久山工場、アルミ工場、保土ヶ谷工場を爆撃、及び北町付近、方八町、横塚を爆撃焦土と化し、戸数約150戸以内。
敵機延べ数百三十六機なり。
郡山市への初空襲のため市民多数の被害あり。
軍隊及び付近の警防団、須賀川、三春、本宮、福島より応援を受け、午後四時頃鎮火せり。
郡山上空進入合計十三回なり。鉄道貨物ホームにも被害あり。
.これが最初の「郡山空襲」の様子です。同じ日、隣接する旧本宮町(本宮市)にあった製糸工場の郡是(グンゼ)工場にも空襲が有り、働いていた若い女工さんや周辺の住民ら計約500人が死亡しています。
当時の郡山市は「軍都」に指定されていまして、今でも郡山駅から自衛隊郡山駐屯地まで続く『采女通り』のことを昔の呼び名の「軍用道路」という言い方をする人の方が多いくらいです。
そのため、昭和20年(1945)年の郡山市への空襲は計4回も行われています。
- 4月12日(保土ヶ谷化学工場、冨久山工場、東北振興アルミ工場と周辺)
- 7月29日(駅前周辺、日東紡福久山工場、中島航空機会社付近 :現在のパラマウント工場)
- 8月8日(金屋の海軍航空隊)
- 8月9日(金屋の海軍航空隊)
<郡山空襲によって犠牲になった場所と人数>
●保土ヶ谷化学工場(204人)
※4月12日の最初の空襲では、勤労動員で保土ヶ谷化学工場で働いていた高校生が26名も死亡している。(現在の白河旭航行14人、郡山商業高校6人、安積高校5人、旧安積高等女学校1人(⇒安積女子高校⇒安積黎明高校)
●日東紡福久山工場(92人)
●東北振興アルミ工場(47人)
●浜津鉄工場(4人)
●郡山駅(11人)
●方八町(7人)
●横塚(22人)
●市内(5人)
●航空隊(5人)
●不明(33人)
アメリカ陸軍によるこの爆撃は、「日本全土焦土化作戦」と言う名が付けられていたそうですが、この作戦は原爆投下よりもっと恐ろしい非戦闘員虐殺作戦であることは誰が見ても解ります。
ただ、以前にも記載しましたが「ジュータン爆撃」を最初に考えだし成功した人物は「山本五十六大将」であり、爆撃をされその恐ろしさを初めて体験し震え上がった一人が米軍将校のマッカーサーだったことは、戦争の皮肉な巡り合わせです。
戦争は、無限に近い多面性が有ります。終戦の日を迎えるにあたって、全国で行われた爆撃の記録をもう一度考え直すのも、供養の一つではないでしょうか。
(注、第二次世界大戦ごろまではどこの国にも‘空軍’という概念は無く存在していなかった。
戦闘用の飛行機とパイロットは「陸軍」と「海軍」、それぞれの下に独自に配備され、所属も訓練も、機体製造までも別のものであった。
ゆえに『空軍』とは第二次世界大戦以降にできた組織・名称である。)
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コメント
ジェット機にだけ飛行機雲は出来るのだと思っていました。
プロペラ機にも出来るんですね。
思いを新たにしました。
勉強になります。
投稿: もうぞう | 2014年8月14日 19:12
もうぞうさんへ
大型のマフラーはありますからね。出るんだと思います
投稿: 玉井人ひろた | 2014年8月14日 19:21