あの忠義の史の、年・月・日・時刻は?
12月といえば、毎年どこかのチャンネルで放映されるのが忠臣蔵でしょう。最近は時代劇チャンネルなどBSでは昔の映画が沢山放映されていますからさらに増えている気がします。
きょうはその討ち入りの日の「12月14日」と同じと言うことで、きょうは‘赤穂義士祭’とかのイベントがあちこち行われているそうですね。
‘赤穂浪士’の人気は、ほんとうにすごいです。
ただ、この「赤穂浪士」という言い方が定着したのは戦後の話しで、比較的新しものだということは、その呼び方があまりにも有名過ぎて知られていないことのようです。
元々は【赤穂義士】というのが普通で、「赤穂浪士」という言い方は「大佛 次郞 (おさらぎ じろう)」の小説「赤穂浪士」(初版本は昭和3年(1928)に改造社から刊行)が昭和34年(1959)に同名でテレビドラマ化されてから定着したんだそうです。
大佛氏が昭和初期に『東京日日新聞』に「赤穂浪士」という題名で連載されたときは、義士が浪人にされたことでちょっとした話題になったそうですが、その点でも「浪士」の言い方が広まった気がしますね。
さて、今では12月は「師走」という言い方がお馴染みですが、講談師などが言う場合は「極月(ごくげつ)」という12月の異称を使うのが昔は一般的だったので『元禄十五年極月十四日』と言うのが忠臣蔵の事件が起こった日時の表し方としたほうが、私には馴染みます。
それはともかく、この『元禄十五年極月十四日』記録された事件が起こった時期を現代の年月日に直したらどうなるのか?考えてみたことはあるでしょうかね。
これに関しては、詳しく調べたものが沢山アップされていましたので、新旧を対比させるとこうなりました。
・元禄15年極月(12月)14日 ⇒1703年1月30日
・討ち入時刻は「14日寅の刻(とらのこく)」⇒15日午前4時ごろ⇒1月31日の午前4時ごろ
・天候は雪がふる寒い夜 ⇒よく晴れて寒い夜
・吉良上野介の首級をあげた時刻は「14日卯の刻(うのこく)」⇒15日午前6時を過ぎるごろ⇒1月31日明け方の6時ごろ
要約すれば、討ち入りは↓
1703年1月31日の午前4時頃に始まり、明け方近くの午前6時過ぎごろに終焉を迎えた事件
と言うことになるようです。
人と言うのは、明け方が最も油断する時間帯だそうです。大石らがそのことを知っていたか否かは不明ですが、知っていてやったとしたらすごい兵法を学んでいたことになりますので、それだけで大石のリーダーシップと頭脳には恐れ入ります。
あまり知られていませんが、大石内蔵助はこの討ち入り後に将軍の徳川綱吉に対し上申書のような手紙を送っています。
その内容はだいたい↓こんな感じ
「上様は忠義を武士の本分と仰せだが、その忠義は主君に対してでありましょうや?それとも上様(幕府)にでありましょうや?」
綱吉は大名を江戸城に呼び、自らが忠義などについて講義を行った教育熱心な将軍でもあり、大石内蔵助のその書状についてあまり良い思いをしなかったのかどうかは不明ですが、長い時間をかけた後に討ち入りした全員に「切腹」を申し付けた裁定から推測すれば、あまりいい気分じゃなかったのかもしれないようです。
今で言うなら、「公務員は国民のために尽すのか?それとも時の政権に対して尽すのか?」でしょうかね
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コメント
幕末に「浪士組」という治安維持を目的とした幕府の雇い兵みたいのがありました。幹部はれっきとした幕臣ですが「浪士」というのはかっこいい存在だったのですね。
新撰組はその流れで、近藤勇は後に直参、籠が許されるほど出世します。
投稿: ましま | 2015年12月15日 10:12
ましまさんへ
近藤は、大名格になったさいには「大久保」の姓に改名していたようですね。
話変わりますが、時代劇のせいか?よく誤解されるのが“駕籠・籠”ですね。
竹製のため駕籠・籠と呼ばれるものに乗るのは「町人」でして、身分の高い武士が乗る引き戸付のは「御乗り物・乗り物」というのが正式なんですよね。
投稿: 玉井人ひろた | 2015年12月15日 17:04