「12月9日」が旧暦ならば・・・慶応vs明治
慶応3年と4年と言う年は幕府から明治政府へ変化し、元号も二つ存在する日本の歴史上もっとも激変の年でしょう。
日本史でも年号別と西暦と三通りの日付の言い回しが使われ複雑にしています。
例えば>
- 慶応3年は、翌年の慶応4年(9月)に「明治」という元号に改正されたので、前年が明治元年にした
これがよく解らない。
慶応4年に元号が改められたならその年が元年だと思うのですが、当時の政府は前年の1月1日までさかのぼって「明治」としたわけです。
確かに慶応3年の10月に「大政奉還」が幕府によって行われ、同年の‘12月9日’には新政府によって「大政復古の大号令」という宣言が行われ、完全に幕府と将軍の権力は消滅するということが公示されましたので、ここから明治が始まったといっても過言とはならないでしょう。
しかし、慶応4年の9月に元号が改称されたのだから、戻っても同年の1月1日からが本来の明治だと感じます。
それなら、「なぜ、前年にさかのぼって明治としたのか?」
私の個人的な考えでは、慶応4年の干支(十干十二支=えと)が「戊辰(つちのえたつ・ぼしん)」だったことから「戊辰戦争」と名付けられた明治政府側の理論からすれば「反乱軍制圧掃討作戦」を正当な行為とするためには、「我が方が以前から認められた政府だった」としなくてはならなかったのでしょう。(さらに、皇室典範がまだ無かった)
150年ほど経った今でも、福島県には官軍ではなく東軍と呼び、賊軍ではなく西軍という言い方が存在しています。
今年、旧長州の山口県山口市と福島県会津若松市が和解宣言なるようなセレモニーが行われましたが、それほど根深い遺恨が存在していることも事実です。
戦争とは内戦も含め、遺恨と言う未来の火種が消えるまで終わらない、厄介なものです。政をするものは、そのことを熟慮するべきでしょう
| 固定リンク | 0
コメント
孝明天皇没が慶応2年12月25日で、明治天皇は慶応3年(1867)1月9日に若いため摂政を置いて代を継いでいます。
だから、今風に考えれば慶応4年がおかしいと言えばおかしい。
投稿: ましま | 2017年12月10日 10:27
ましまさんへ
孝明天皇没(むごい死に様に毒殺とも言われる)後、20年以上も経ってから旧皇室典範が制定されましたので、その間は従来の慣習に従ったのでしょうね。
投稿: 玉井人ひろた | 2017年12月10日 11:38
こんばんわ。
・「文章」を読んで。
これは、初めて知りましたね。
投稿: H.K | 2017年12月10日 21:30
H.Kさんへ
日本史の教科書になかったですかね?
投稿: 玉井人ひろた | 2017年12月11日 07:59
ほほう、
さかのぼってですか?
でも無理がありますね。とくに現代ならば。
投稿: もうぞう | 2017年12月11日 16:26
もうぞうさんへ
今なら、混乱しますし反発が来るでしょうね
投稿: 玉井人ひろた | 2017年12月11日 16:55