蝦夷(えみし)と徳一(とくいつ)
今から1200年ほど前の平安時代、中華思想に傾倒した桓武天皇は、天皇の支配する”中華”以外の周辺には文化の遅れた民族=野蛮人ばかりだと決めつけ、それらを教え導くという考えが取り入れられ、逆らう者は‘悪’として征伐(惨殺)を繰り返し、追い払った土地には京の住民を移住させる政策を強行していました。
つまり、侵略です。
その中でも、最も抵抗が激しかったのは現在の中部・関東・東北と言うとても広い範囲で狩猟で生活していた民族です。
桓武天皇はその狩猟民族を「弓を持った野蛮人」という意味の「蝦夷(えみし)」という蔑称で呼び、最後には坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し侵略を成功します。
その時に最後まで戦いの中心になったのは蝦夷の英雄「阿弖流為(あてるい)」と言う人物で、最後には捉えられ「悪王」と呼ばれ一緒に捉えられた副審で親友の「母礼(もれ)」ともに京の都(現在の奈良)晒され公開処刑になります。
記録によれば、坂上田村麻呂は敵である阿弖流為の人物・人柄に敬意を抱き処刑中止を嘆願したそうですが、それは田村麻呂を美化するために後世に付け加えられた話かもしれません。
さて、この桓武天皇の東国侵略に賛同しなかった人物がもう一人います。
それは、そのころの仏教界の重鎮であり、堕落した奈良仏教界に見切りをつけ布教活動拠点を東国に移していた法相宗(ほっそうしゅう)高僧の「徳一上人(とくいつしょうにん)」という僧侶です。
法相宗は知らない人も多いでしょうが、三蔵法師(玄奘三蔵)がその宗派で、会津の有名な「あかべこ」は、この徳一上人の伝説の一つです。
徳一上人は、この時代「最澄」、「空海」と並ぶ三大高僧の1人で現在の会津の磐梯町に慧日寺(えにちじ)を建立し、茨城や新潟などまでその勢力は東国最大にまで発展させた人物ですが、後継者に恵まれなかったことや同時代の新興勢力の最澄(天台宗)や空海(真言宗)に取って代わられ、最後には伊達政宗によって寺院の全てが焼き払われてしまいました。
徳一上人が建立した寺院は、現在すべて真言宗のお寺になっています。
我が村にも徳一上人が建立した相応寺がありますが、現在は真義真言宗となり、真言宗の本尊は大日如来のため、薬師如来は別の御堂になっていますが、村の文化財になっています。そして、ゆかりの三体地蔵尊も有ります。
その慧日寺跡は現在国指定史跡になり金堂が再建され、そして7月30日に法相宗の本尊である薬師如来坐像(やくしにょらい ざぞう)の完成披露式典が行われました。
式典には法相宗大本山興福寺の多川俊映貫首(かんす)が招かれ、「祈る人の思いが像に乗ることで仏になっていく」と説いたようです。
復興された慧日寺、いつの日か行ってみたいですね。
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コメント
阿弖流為伝説は広くドラマや小説にもなっているので、
知っていました。
徳一上人というえらい坊様の話は知りません。
それぞれの地・時代に英雄と呼ばれたり、賢者と
いう人たちはいるものですね。
そんな歴史を私たちはきちんと受けついで
いるでしょうか。
投稿: へこきあねさ | 2018年8月 1日 20:33
へこきあねささんへ
阿弖流為の事、徳一上人の事、もっと知ってもらいたいです
投稿: 玉井人ひろた | 2018年8月 1日 20:37
私は知りませんでした。
なんでも興味をお持ちですね。結果?知識も広まるのでしょうけど。
投稿: もうぞう | 2018年8月 2日 07:24
もうぞうさんへ
これはNHK時代劇で大沢たかお主演「阿弖流為伝」を見てから知りました
投稿: 玉井人ひろた | 2018年8月 2日 08:29
少し違うのでは?
栗原郡の伊治城の反乱は刈田郡まで及びました。延暦八年に征討軍は刈田郡を越えずに敗績しました。阿武隈峡谷部で伊具側から威されて阿武隈川に身を投げ溺死者が多数出たのです。
河を兵士が泳ぎ渡った所に兜渡と言う地名が今だに残っています。阿弖流為の居所は東北自動車道国見パーキング付近の「馬ノ墓」と推定されます。「馬ノ墓」とは「高麗ノ墓」阿弖流為は古代渡来人の坂上刈田麻呂と祖先が同じ同族と考えられます。夷を以て伊を制すと言う政策ですね。磐具公母礼は現在の伊具郡の人と考えられます。
朝廷軍が殺戮を繰り返し侵略したという根拠は史書を読む限り違うと思います。根本思想は「堯舜之化」を手本としたものではないでしょうか。
この二人物が胆澤付近の住人ではない証拠は、胆澤公と呼ばれていないことです。
投稿: 加茂 真明 | 2020年3月 3日 14:37
加茂 真明さんへ
コメントありがとうございます。
歴史には諸説あって、面白いことだと思います
投稿: 玉井人ひろた | 2020年3月 3日 16:53
魊窟 高丸山赤土原に在り 石にて築きたる跡
東西十間余 南北八間余
田村将軍の東夷を征伐せらし際 賊魊(たかまる)の塞をきずきたる跡なりと云ひ傳へ此の山を高丸山と称す。
延暦八年に征討軍は此処の東の阿武隈川東岸で敗績しました。刈田郡南端部の東越山、大高丸山近傍の大道を阿弖流為等に塞がれ通れず、仕方なく阿武隈川東岸を北上しました。猿跳峡谷部で阿弖流為等に脅され官軍は阿武隈川へ逃れ2000人もの溺死者をだしました、一部の兵士が泳ぎ渡った場所は兜渡と称され地名として残っています。多賀城は陸奥国府ではありません。賀美郡の城柵です。名取以南十四郡から遠くはなれた場所に多賀があることを大伴家持が述べています。
投稿: 賀茂真明 | 2021年1月10日 10:59
>賀茂真明さんへ
どちらか側から見るかによって、説は変わります。
ゆえに諸説あるのだと、考えております
投稿: 玉井人ひろた | 2021年1月10日 11:43