一人の男の死
志村けん(70)という一人の男の死に対し、その原因に対し、国内はもとより海外までがそのショックと悲しみや惜しみのメッセージを発している。
政界までがお悔やみの言葉を言い、『その死で新型コロナウイルスの恐さを伝えた』と賛辞の言葉さえ贈られた。
わたしもお悔やみを申し上げたい。
私の父も、ほとんど同じ年齢で他界している。
父の死は、国の‘難病指定’にもなっている「肺繊維症」というものに肺が侵されたことによるものである。
気が付いた時には、すでに末期に近かった。
これもまた肺の病気であるが感染症ではない、にもかかわらず近所の人によっては、我が家の前を通るときは(感染しないように)‘口をふさぎ息を殺して足早に通り過ぎる’という悲しい行動をした人が居た。
ところがどうだろう、感染症で亡くなった志村けん氏の自宅前には献花する人が集っている。
やはり、著名人は違うものである。テレビでは、これまでの出演番組や在りし日の様子の特集が、各テレビ局は競争するように放送している。
ただ、同じ一人の人間の死、同じ新型コロナウイルスで亡くなった他の多くの人々との報道の扱い方、マスコミはこれほど差をつけてよいものだろうか?
わたしにはよく判らないが、私の父親の死は「難病」に対する啓発にも研究開発にも何もならなかったが、家族の悲しみは志村けん氏とは比べようもないことだったことは確かである。
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