黄門忌
本日12月6日は「黄門忌」という日になっています。
これは、後世になって水戸黄門として有名になる水戸藩第二代藩主の徳川光圀が旧暦の元禄13年(1700年)12月6日に行年73才で他界した日のことです。
亡くなったのは旧暦の日付けですから、今の新暦だと本来はあくる年の1月14日(1701)になりますが、それは気にしないでおきましょう。
知っている人は少なくないと思いますが、「黄門」とは古代中国の中央官庁の役所の「門下省」の通称名で、ここを守る役職が日本の「中納言」の官位・官職と仕事内容な似ていたことから、水戸藩の中納言の徳川光圀で「水戸黄門」と呼ばれるようになったものです。
ただ、徳川光圀が水戸藩主に着いたときは「権中納言 」で、中納言に準ずる下位の位だったのでこれも本来とは違いますが気にしないでおきましょう。
ですから、「水戸黄門は7人だった」とする人も居ます。
- 徳川頼房(よりふさ)・
- 徳川光圀(みつくに)・
- 徳川綱條(つなえだ)・
- 徳川治保(はるもり)・
- 徳川齋脩(なりのぶ)・
- 徳川齋昭(なりあき)・
- 徳川慶篤(よしあつ)
上記は全て水戸藩の「中納言」の官位を授かった藩主です。
徳川光圀と言えば、日本で初めてバターやラーメンを食べたとか近代食文化に関係しますが、7番目の黄門の徳川慶篤は日本で初めてビスケットとパンの製法を入手した人物だそうです。
海外の食文化に好奇心旺盛だった血統なのかもしれません。
その徳川光圀の従兄弟には、3代将軍の徳川家光、初代会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)がいます。
江戸城に天守閣が無いのは、江戸の大火で江戸城も類焼したさいに、「江戸城再建より、江戸の町の再建を優先すべきである」と将軍家光が異母兄弟の保科正之の進言を取り入れ決断したからだとされます。
家康の孫たちは、今の政治家に教えてやりたいすごい政治家が多かったということでしょう。
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コメント
そうですか。水戸黄門は7人もいたのですか。知らなかった(^_-)-☆
でも、彼らの役回りや政治姿勢を一人に特化して美談としてドラマ化した講談師はよくやってくれたと思います。政治とは政治家とはこうあるべきもの、「強きをくじき、弱きを助け」 と勧善懲悪の世界を理想として、庶民を喜ばせたのですから やはり「黄門さま」はえらい!!とほめてさしあげましょう。
投稿: へこきあねさ | 2021年12月 7日 11:28
>へこきあねさんへ
水戸黄門漫遊記は、とてもよくできた劇だと思います
投稿: 玉井人ひろた | 2021年12月 7日 11:37
黄門様は今でも人気者のようですね。
投稿: 吉田勝也 | 2021年12月 7日 14:22
>吉田勝也さんへ
時代劇の最高峰の一つでしょう。
投稿: 玉井人ひろた | 2021年12月 7日 16:25
水戸は分かるが、黄門の意が分かりませんでした。
勉強になります。
今夜も見るかな~
投稿: もうぞう | 2021年12月 7日 17:53
>もうぞうさんへ
我が家では、母がBSで毎晩視ています
投稿: 玉井人ひろた | 2021年12月 7日 19:40
母方の母系が水戸藩なので、子供の頃から黄門様に親しんで育ちました。高校の文化祭では、何故か私が黄門様役で、ハッハッハッ!と笑った時、口ひげが飛んで大受けでした。今期のBS時代劇の水戸光圀公の青年期の物語も楽しみにしています。
投稿: 山桜 | 2021年12月 8日 10:15
>山桜さんへ
十人衆が出るのですよね。私も欠かさず見ています。
劇中に紹介される、光圀が若いころ放蕩三昧で辻斬りまでしたこと、これは史実で本当のことです。
投稿: 玉井人ひろた | 2021年12月 8日 16:42