戦死伯父の遺影の数字
終戦から79年、わが伯父が戦死したのは開戦間もない昭和17年の7月ですから今年で82年になります。
座敷に掲げられた伯父の遺影は、出征前に家族全員で撮った軍服姿の白黒写真を、その当時は一般的だった鉛筆画で拡大したものです。
物心ついたときから見慣れた遺影ですが、今頃になってその軍服の襟にある数字に気が付いたのです。
立ち襟にアラビア数字(算用数字)で「67」の数字がはっきりと読み取れます。
まず、悩んだのは
- 「陸軍」と思っていたのに、制服の襟が海軍のように立ち襟であること
- 帽章は陸軍なのに、よく戦史などででてくる陸軍の軍帽ではないこと。
- 太平洋戦争では、襟にアラビア数字を使用した軍服がみられないこと。
これは何を意味するのか?あちこちとリサーチしてみたら、伯父が亡くなったのは昭和17年7月だということが、キーになることが判りました
日本軍の軍服と言うのは、昭和16年の12月の開戦から何度も変更を繰り返します。
伯父が亡くなったのは昭和17年なので、入隊は17年だとしてもかなり早い時期なので、まだ陸軍が日露戦争のころのような立ち襟に幅広の帽子を使用していたと思われます。
そして問題の襟の数字は、陸軍の「歩兵第67連隊」を指しているようです。
この襟に数字を付けることは敵に連隊名が判ってしまうとされ、昭和17年には廃止されますので後の陸軍兵の写真には無かったのです。
歴史をみると、この「歩兵第67連隊」は昭和16年まで上海の警備を請け負っていた部隊で、開戦後に南方方面への転戦が計画されたため浜松に本体を置き、そのときに増員の為召集されたのが伯父たちのようです。
記録では、伯父が亡くなった翌年の昭和18年には第15師団に編入されサイゴン(ベトナム)に到着、そこからさらにビルマ(ミヤンマー)に移動します。
そして、昭和19年かの有名な20万にもの日本兵の死者を出す「インパール作戦」に参戦した部隊だったのです。
つまり、昭和17年に亡くならずにいても2年後の昭和19年には戦死していたようです。
召集令状が着た瞬間から、伯父は亡くなる運命だったようです。
24年間の人生、最後に伯父は何を思ったのか?と考えると胃が痛くなる
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コメント
身近にそのような方がいらっしゃるのですね。虎子じゃないけど、「あの戦争はなんだったのか?」と問いただしたくなります。
私の父は戦地に行かなかったものの、戦後まもなく米軍の車に轢かれ、何の補償もなく一生びっこでした。
投稿: へこきあねさ | 2024年8月14日 (水曜日) 20:14
>へこきあねさんへ
「虎子」ではなく、朝ドラのは「寅子(ともこ)」ですね
それはともかく、そういうこともお遭いになったんですね
投稿: 玉ヰひろた | 2024年8月15日 (木曜日) 08:00