久米島で起こった日本兵による虐殺
日米双方合わせて20万人もの戦死者を出し、昭和20年(1945)6月23日に終結した沖縄本島の戦争から3日後の6月26日。沖縄本島から100kmほど離れた久米島の旧仲里村イーフ浜にアメリカ軍が上陸を果たします。(※現在の沖縄県久米島町は旧具志川村と旧仲里村が合併してできた町)
久米島で護衛の任を担っていたのは、鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)を隊長とする日本海軍通信隊の分遣隊の兵士たちでした。
この鹿山兵曹長と言う人物が、自分より強いものや上のものにはとっても弱く小さくなり、自分より下の者に対してはくそみそに扱うという「パワハラの権化」のような人物だったのです。
島の住民たちは陰で鹿山兵曹長を「臆病隊長」と揶揄していたくらいですから、アメリカ兵が上陸してきた際は一目散に山へ逃げ反撃もしなかったのでアメリカ軍は無血上陸となりました。
この時に島の住民たちも一緒に山に逃げたのですが、7月6日に鹿山正兵曹長はともに逃げている住民を脅迫します
「もし退山する者は、米軍に通ずる者(スパイ)として殺害すべし」
これは、鹿山兵曹長が「アメリカに投降した住民が自分の隠れ場所を言ったら殺される」、「一般人を傍におけばアメリカ軍は攻撃をしてこない(人間の盾)」と言う、臆病者が考えそうな卑怯な思いだったとされています。
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