カテゴリー「歴史」の144件の記事

2023年11月24日

慈母観音

郡山市から国道49号線を走行し、猪苗代湖を過ぎて会津若松市の街並みが見え始めるところに至ると、目前に「会津慈母大観音像」の白い姿が目に入ってきます。

高さ57メートルもある会津慈母大観音像は、会津の観光施設として整備された「会津村」の象徴として昭和61年(1986)に建立され、何度かの経営危機などで管理者が変わりながら現在も「祈りの郷・会津村」の象徴となっています。

本来、観音様(観世音菩薩)には男女の区別は存在しませんが、この慈母観音は胸に乳飲み子を抱き優しく見守る姿はまさしく「慈悲深い母」をイメージさせます。

本来は慈母観音というのは日本には無く中国で発祥し作られていたそうですが、日本に伝わった際はその姿が生れたばかりのキリストを抱く聖母マリア像に酷似していることから、隠れキリシタンたちは「マリア観音」という名称で信仰の対象とし、幕府はそれをキリシタン取り締まりの証とした歴史が在ります。

建立した当時そんなことを思った人は、私を含めて誰もいなかったと思います。

そんな歴史を考えると、見れば見るほど聖母マリア像に見えてくるから面白い大観音像です。

 

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2023年11月16日

会津とベートーベンの「第九」

大一次世界大戦中、旧会津藩士の長男として生まれた松江豊寿氏(後の第9代会津若松市長)は徳島県鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所長を務めていましたが、その時に敵だったドイツ人捕虜を、上層部の反対意見を聞かず人道的に振る舞いでドイツ人にパンを焼かしたり、近くの人たちとの交流までさせました。

その行為は今では当たり前ですが当時は考えにくく、解放される際に松江豊久氏に待遇の感謝をこめてドイツジョン捕虜たちがベートーベンの第九合唱を贈りました。

これが、日本で第九が歌われるようになった切っ掛けとされています。

その感謝の第九の初演から100年めに合わせ、会津若松市の會津風雅堂前に松江豊寿氏の記念碑が実行委員会によって2018(平30)年秋に建立されました。

余談ですが、松江氏の実弟の松江春治氏は「角砂糖」の生みの親で『砂糖王(シュガーキング)』として、豊寿氏より早い1934年(昭和9年)8月 、同市に銅像が建立されています。

今年は建立から5年目の筋目として11月15日に、献花祭に来賓で招かれたドイツのクリスチャン・ウルフ元大統領が訪れ

「(松江豊寿が)当時、戦争相手だったドイツの捕虜を人道的に扱った。その姿勢は今の時代とって大切だ」

というあいさつを行い、市内の大塚山墓園にある松江家の墓も訪れたそうです。

同時に人類愛にあふれた松江氏の功績を振り返り、平和の尊さを次世代に伝え続けると誓ったそうです。

ウクライナにイスラエルのガザ地区、アフリカの各地で今も続く戦争に『人道的な扱い』は行われるはずもないことが映像として見られる現代に松江豊寿氏はあの世から何を思うのでしょうか?

と、毎年思うこの頃です

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2023年11月 5日

棋士 升田幸三 対 GHQ

現在史上初の八冠を制した藤井八冠の影響で将棋界はちょっとしたブームで活気づいています。

ただ私にとって将棋界の大御所と言えば、大山康晴、羽生義治、そして歌や芝居で有名な坂田三吉の方々です。

特に羽生氏が出てくるまでの大山棋士の将棋界での凄さは印象深いものです。

その大山氏と死闘を繰り広げた「升田幸三」という、破天荒な名棋士が居たことを今日の朝刊で知りました。

そもそも、将棋は古代インドの「チャトランガ」というもので、そこから欧米などのチェスも生まれた競技だそうです。

チェスと将棋はとても似た競技ですが、大きな違いはチェスは取った相手の「駒」は使えないのに対し、将棋は取った駒を使用できるところです。

そのため、将棋では取得した駒の使い方で大きく局面が変化するため、コンピューターもなかなか人間に勝てないということが起きているそうです。

さて話は升田棋士に戻りますが、戦後にGHQに呼び出された升田棋士が将棋とチェスでGHQと大論争を繰り広げた挙句に論破したというエピソードが朝刊に載っていました。

その論争とは?

GHQ曰く
「我々がたしなむチェスと違って将棋が取った相手の駒を自分の兵隊として使う。これは戦闘で捕虜に戦わせるのと同じで捕虜の虐待で人道に反する

それに対し、
升田棋士は冷静に言い返す

「駒を使わないチェスこそ捕虜の虐殺だ。それに対し日本の将棋は捕虜を虐待も虐殺もしない全ての兵隊(駒)が生きている
さらに続けて
「チェスは王様(キング)が危なくなると女王(クイーン)を盾にして逃げる。武士道では命を懸けて妻女を先に逃すものだ」

じつに痛快で面白い話です。

ただ、この話は升田棋士が語ったものでGHQがわには無いエピソードだそうです。

升田棋士はアマ囲碁八段を持ち徴兵も経験している人物ですが、その徴兵に対しても「日頃の不規則な生活から規則正しい生活にさせられて死なずに済んだ」と言い放ったそうですから面白い人物です。

坂田三吉、升田幸三の二人から見たら藤井八冠はどう映るのでしょうか?

たぶん、宇宙人でしょうね。

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2023年9月17日

先人たちからの声「伝承碑マップ」

東日本大震災では、震災後に多くの場所からかここに大災害が起こったことを伝える文献や言い伝えや文献が次々と発見されました。

それを伝えたのは生き延びた人々や海外から来た宣教師など、多種多様になっていました。

中にはかなり前から確認されていたのもあったのですが、「見間違いだろう。そんなことはあるはずがない。誇張表現だろう」とされたものもたくさんありました。

しかし、それらの先人が来世の人々へ残した訴えは、すべて本当だったことが震災で証明される結果となりました。

その教訓からでしょうか?全国に在る伝承碑に再調査がはいり、それらが国土地理院に「自然災害伝承碑を地図で見る」というものが設けられていることを今朝のNHKの番組で知りました。

地理院地図のサイトの2つの「伝承碑」リンク

地理院地図で見る] 

ハザードマップポータルサイトで見る

上記にアクセスし、地図上のボタンをクリックすると災害と建てられた年代などがわかります。

どちらも、同じく自然災害の種類ごとの伝承碑が見られます。

最近のも在りますが、自宅近くで過去に起きた災害を確認するのは、災害への新たな考え方・思いへとつながるように感じました。

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2023年8月19日

昭和40年8月19日佐藤栄作首相が沖縄へ

昭和40年(1965)のきょう8月19日は、佐藤榮作首相が首相として戦後初めてまだアメリカの統治下にあった沖縄を訪問した歴史的な日です。

そして、那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還への意志を明確に表明したひでもあります。

ただ、佐藤首相は『祖国復帰実現要求』の沖縄のデモ隊に宿舎を囲まれ、やむなく米軍基地に宿泊することになりました。

その後、言葉通りに『1968年6月26日に小笠原諸島の返還』、そして『1972年5月15日に沖縄が本土に復帰』を実現させることになりました。

佐藤首相は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した総理としても有名ですが・・・

その裏で、中国の核実験成功受けアメリカ軍の日本への核兵器持ち込みを黙認する密約を取り決めたことは、アメリカの公文書から明らかになっています。

私としては、故安倍首相が連発した「福島の復興無くしては、本当の復興とはならない」ということばが佐藤総理の言葉にを思い出してしまいました。

佐藤総理はマスコミ嫌いでも有名でしたが、故安倍首相は大叔父の佐藤首相に似ていることは確かです。

ところで、昭和40年の8月19日を調べたら、木曜の大安になっていました。

やはり、日付を見て沖縄訪問日を決めたのでしょうかね?

 

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2023年8月15日

二号研究、飯盛博士、自由民権運動

福島県石川町、ここでは日本陸軍が極秘に行っていた「二号研究」というのを進めるための拠点の研究所がありました。

「二号研究」とは、太平洋戦争末期に陸軍が作ろうとしていた「原子爆弾」の開発研究のことです。

この研究所で中心的な役割を担ったのが、石川町に疎開していた理化学研究所に勤め放射化学の第一人者であった飯盛里安(いいもり・さとやす)博士です。

そして、天然ウラン(ウラン235)の採掘に動員された旧制私立石川中(現学法石川高)の3年生約180人たちでした。
ただし、生徒たちには極秘なので研究内容の説明は全くありませんでした。

それは、終戦後何十年にわたり極秘とされ一般の日本国民にも知られることはありませんでした。

石川町では、それらの事実を町の歴史と偉人に焦点した「石川町歴史民俗資料館」(2024年6月まで休館)を建て紹介しています。

同館が来年の2024年3月に移転することになり、改めて石川町と太平洋戦争に関わる歴史の情報発信を強化する一環として、「二号研究」や戦後に人工宝石製造を開発した飯盛里安博士を紹介する常設コーナーを設けることになったようです。

さらに、政府弾圧によって多くの死傷者を出した「自由民権運動」の発祥の地であることも併せて紹介されるようです。

町は飯盛博士や、戦争に翻弄(ほんろう)された人々を資料や写真を通して伝え、平和教育の場とするとしています。

太平洋戦争では、ドイツはナチスによるドイツに住むユダヤ人に対する財産没収と強制収容と一般人集団殺戮、アメリカではアメリカに住む日本人に対し財産没収と強制収容、爆撃による一般人集団殺戮、毒ガスに原爆開発、あの時代どこの国も似たようなことをやっていた事実を知るにはいい機会かもしれません。

 

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2023年4月23日

あの戦争が終わった日

日本では昭和50年、1975年のきょう4月23日は、アメリカのフォード米大統領が「ベトナム戦争」の終結を宣言した日です。

絶対の軍事力を誇り完全に有利に進むはずだったアメリカ軍が、ベトコンと呼ばれたゲリラ隊にてこずり悲惨な結果になった戦争が終わりになった日です。

ベトナムの戦争記念館には、アメリカ軍が隠ぺいしていた戦争犯罪行為を世界に知らしめ戦争終結につなげたとして、日本人の戦場ジャーナリストたち数名の写真が功労者として展示されているそうです。

ウクライナ戦争は、どんな形や切っ掛けで終わるのでしょうか?

それとも永遠に・・・・

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2023年1月18日

118番の日と振袖火事の日

今日は1月18日で海上保安庁が決めた「118番の日」、そして明日は1月19日で消防庁が決めた「119番の日」、陸と海の緊急連絡番号の記念の日が続きます。

歴史に残る火災といえば、今から360年以上も前の明暦3年(1657)に発生し多くの死傷者を出した江戸の大火災があります。

振袖火事ともいわれるその大火災が発生したのも1月18日、それに由来しきょうは「振袖火事の日」という記念日でもあります。

1657(明暦3)年のこの日、江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失し、死者が10万人にもおよんだ明暦の大火が起きた。

「振袖火事」とは、

 上野の神商大増屋十右衛門の娘おきくは、花見の時に見初めた美しい寺小姓を思い、小姓が着ていた着物の色模様に似せた振袖をこしらえてもらい毎日寺小姓を想い続けたが、恋の病に臥せったまま明暦元年1月16日、16歳で亡くなってしまった。

寺では法事が済むと、しきたり通り振袖を古着屋へ売り払う、その振袖を本郷元町の麹屋吉兵衛の娘お花のに渡るが、それ以来お花は病気になり明暦2年の同じ日に死亡した。

その後に振袖は再び古着屋の手を経て、麻布の質屋伊勢屋五兵衛の娘おたつのもとに渡ったが、おたつも同じように明暦3年の1月16日に亡くなってしまうという不可思議な死が続く。

おたつの葬儀に、十右衛門夫婦と吉兵衛夫婦もたまたま来ており、三家は相談して、因縁の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにしたが、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となった。

というのが史実のようです。

ところが、話は戯作者などによって内容が悲恋話に変えられ芝居で上演されるなどして大流行し、史実とは違う戯作者の内容が事実のようになっていきました。

これは、赤穂浪士の話なども同じですが、何百年たっても作家やメディアの力というのは火災より恐ろしいところがあります

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2022年8月20日

8月21日は「福島県民の日」

8月21日は、福島県では「福島県民の日」という記念日になっています。

  • 明治9年(閏年1876)8月21日、旧福島県・磐前県・若松県の3県が合併してほぼ現在と同じ姿の福島県が誕生した。
    そのことからこの日に
    郷土への理解を深め、郷土愛を育みながら、県民が心を合わせてより豊かな福島県を築き上げ次世代に引き継ぐことを目的として
    平成9年(1997)に制定された記念日。

上記のことから、県内の各市町村では公共施設の一部などの無料開放が行われます。

その前日に、「聖光学院 対 仙台育英」という準決勝の試合が行われ、聖光学院は18対4の大差で負けはしましたが、キャプテンの赤堀君(3年京都)が最終回の攻撃でランナーでファースト塁上で涙を流しながら最後のバッターで4番の三好君(2年神奈川)に声をかける様子にもらい泣きしてしまいました。

よく最後まで頑張りました。明日8月21日「福島県民の日」の朝刊一面は決まりです。

感動しました。

ベスト4になったことで、聖光学院は再来月の10月に栃木県で開催される「いちご一会とちぎ国体」に出場することが決まりました。
そこで、またもう一度同じメンバーで野球ができるようですから活躍してほしいです・

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2022年8月15日

沖縄と太平洋戦争

昨夜の関口宏さんのBS歴史番組は、沖縄と太平洋戦争のことでしたが、知らない事実が次々と報道され見入ってしまいました。

佐藤栄作首相が沖縄返還の条件として、アメリアかと交わした「有事には、米軍の核ミサイルを沖縄に持ち込むことを日本政府は許可すること」という密約、それはすでにNHKで報道されて知っていましたが、その頃のアメリカ軍人の発言の記録などは知らなくてちょっと驚きました。

ある将校の発言の内容です。

沖縄には米軍基地は無い。なぜなら、沖縄が米軍基地だからである

正確には、少し違いますが上のような発言が米軍将校の一人からあったそうです。

つまり、
「沖縄に米軍基地が在るのではなく、沖縄という米軍基地の中に沖縄の人々が暮らしている」という考え方が、アメリカ軍にはあったということです。

番組では、そのアメリカ側の考えは今でも継続されていることが悲劇を生み、日米交渉のネックになっているようだと結んでいました。

未だに日本はアメリカの統治下のように感じてしまいましたが、そのことで今の平和が維持できている気もして複雑な思いに駆られました。

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