大坂(おおざか)の”首都構想”
先日、大阪市民による住民投票で「大阪都構想」は廃案になりました。
維新による大阪都構想は大阪府と大阪市の二重行政是正が目的で、大阪を日本の都とするものではありませんでした。
しかし、大阪を日本の中心都市にする構想(大坂幕府構想)が有ったことが、昨年見つかった古文書で判り現在もその研究が進められているようです。
「大坂ハゆく/\ハ御居城にも可被成所ニ御座候間」
(おおざかはゆくゆくは御居城にもなさるべくところにござそうろう)意味=「大坂はゆくゆくは(将軍の)居城にもなるところである」
それを考えたのは徳川家康で、実行に移したのが2代将軍徳川秀忠、そして3代将軍家光の親子だったようなのです。
そのやり方は、江戸は忠長に任せ、まず大坂城の改築、後水尾天皇へ娘を嫁がせ公武合体とし、その娘が生んだ皇太子である高仁親王を擁立し、完成した新たな大阪城で権勢を振るうという構想だったと考えられています。
しかし、大阪城は完成したのですが、忠長は乱心、高仁親王は3歳で死去、後水尾天皇は第一子の長女である女一宮に天皇の座を譲位することを宣言し、これによって女一宮が明正天皇(女性天皇)となってしまい大坂幕府構想は無くなったようなのです。
ただ、今回発見された遠州の書状を見てみると、幕府の機能を移転するという話は出てこないらしく真相はこれからの研究の課題のようです。
もし、大阪が徳川幕府の拠点=政治の中心になっていたら、日本の歴史はどうなっていたでしょう?
少なくとも、戊辰戦争の内容は全く変わった様相になっていたことは間違いありません。
最近のコメント