カテゴリー「歴史」の151件の記事

2025年6月 7日 (土曜日)

串団子、どうして団子は4個なの?

販売されている串団子というのは、ごく稀に5個や3個のもありますがほぼすべてがどうしてなのか「4個」で販売されています。

これはいかにも半端な個数でもあり、そもそも日本人は「死」をほうふつさせる「4」の数字は嫌うものでもあり、いつからそうなったのかを含め串団子の数が4個になっている理由が以前から気になっていました。

その理由のルーツは、今から250年以上も前の第10代将軍徳川家治の時代、明和(1764年~1772年・)の頃までさかのぼります。

この時代一文銭などの材料に使われていた「銅」が非常に不足、そこで江戸幕府は一文銭4枚が1枚で済む「四文銭」というのを鋳造し銅の不足を解消する策を考え出します。

この四文銭硬貨(現在の100円ぐらい)は一文銭より使い勝手がよく、爆発的に流通・普及が進み「四文屋」という屋台まで出始めるようになります。

しかし、四文銭が流通するようになって人混みの中で、四文銭で騙して一串団子5個で5文の串団子を支払ったようにみせかける輩が増え始めます。

そこで団子やが対策として、始めから一串4玉(四銭)にして四文銭1枚で済むようにして販売するようになります。

それから、串団子の数は4個になって現在に至ったというのです。なるほどです。

 

余談ですが、
銅または真鍮製の四文銭は昭和28年(1953年)末まで「2厘硬貨」として法的に通用していたそうですから、またまた驚きです。

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2025年6月 5日 (木曜日)

「ぶうん ちょうきゅう」を願って万歳・・

今朝のNHkテレビ小説「あんぱん」で、ヒロインの教え子の兄が出征するシーンがありました。

その兄が「行って来ます」とあいさつすると、すかさず婦人会の代表から「『行って、来ます』は良くない。『行きます』です」という、この時節特有の指摘がなされます。

そして悲しみをこらえ大きな声で妹が「武運長久を願って万歳」の音頭で、集まった人全員で一斉に万歳が叫ばれるという、戦時中シーンの定番の様子が行われ、わたしは亡き祖父や伯父たちの出征の様子が連想され胸が熱くなりました。

さてここで使われる婦人会の『来ます。』は生きて帰ろうと思われるから駄目だという指摘叱責と、「武運長久」と言う言葉の意味には大きな矛盾があることを知っているでしょうか。

 

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2024年8月24日 (土曜日)

久米島で起こった日本兵による虐殺

日米双方合わせて20万人もの戦死者を出し、昭和20年(1945)6月23日に終結した沖縄本島の戦争から3日後の6月26日。沖縄本島から100kmほど離れた久米島の旧仲里村イーフ浜にアメリカ軍が上陸を果たします。(※現在の沖縄県久米島町は旧具志川村と旧仲里村が合併してできた町

久米島で護衛の任を担っていたのは、鹿山正海軍兵曹長(事件当時32歳)を隊長とする日本海軍通信隊の分遣隊の兵士たちでした。

この鹿山兵曹長と言う人物が、自分より強いものや上のものにはとっても弱く小さくなり、自分より下の者に対してはくそみそに扱うという「パワハラの権化」のような人物だったのです。

島の住民たちは陰で鹿山兵曹長を「臆病隊長」と揶揄していたくらいですから、アメリカ兵が上陸してきた際は一目散に山へ逃げ反撃もしなかったのでアメリカ軍は無血上陸となりました。

この時に島の住民たちも一緒に山に逃げたのですが、7月6日に鹿山正兵曹長はともに逃げている住民を脅迫します

「もし退山する者は、米軍に通ずる者(スパイ)として殺害すべし」

これは、鹿山兵曹長が「アメリカに投降した住民が自分の隠れ場所を言ったら殺される」、「一般人を傍におけばアメリカ軍は攻撃をしてこない(人間の盾)」と言う、臆病者が考えそうな卑怯な思いだったとされています。

 

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2024年8月23日 (金曜日)

8月23日は「白虎隊自刃の日」

慶応4年(明治元年)の8月23日(1868年10月8日)この日、戊辰戦争(会津戦争)で会津藩の白虎隊の中でも身分の高かった士中二番隊の19名が城下の飯盛山で自刃した日です。

会津藩では自軍を年齢により、若い方から白虎隊・朱雀隊・青龍隊・そして高齢者だけの玄武隊の4つの部隊に編成られていました。

最年少の白虎隊は数え15歳(※14歳)~17歳(満年齢13~16歳)までの300人~400人の少年で編成された部隊で、主力部隊である朱雀隊や青龍隊の3分の1ほどの少人数部隊であり玄武隊と同じく城の護衛が本来だったとされています。

ところが士中二番隊が城外の見回りに出たときに敵(西軍)と出会い交戦となり、さらに退却中に隊長とはぐれたことでこの悲劇が起こりました。

最近の研究で、

「飯盛山にいた白虎隊の士中二番隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津の城が落城したものと誤解し全員が自刃決行した」

ということに「有能な若者ばかりだったのに、誤解するはずがない。別の理由だったのではないか?」疑問を呈する研究家が現れ、その実態が再吟味されつつあります。

ただ、旧暦のこの日若い命を自らの手で消したことは事実であり、戦争の悲惨さを伝える事実であることは間違いないことです。

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2024年6月21日 (金曜日)

我が地域にも「〇△▢時間」があった

先週の月曜日、6月10日は「時の記念日」でした。

これは、天智天皇10年(671年)4月25日同天皇が漏刻と鐘鼓によって初めて時を知らせたという『日本書紀』の記事にもとづき、その日を太陽暦に換算して定められた日で、各種の記念日のなかでも「時の記念日」は最初期に定められたものということができる記念日です。

大正中期、日本の近代化には時間厳守、時間割による行動規律、時間を節約することによる効率性の向上が基本として位置づけられ、大正9年(1920)1月、伊藤博邦(博文の養子)を会長とし、渋沢栄一らはじめ政官界の有力なメンバーを役員として定められ、第1回時の記念日は大正9年(1920)に国を挙げて大々的に記念講話や展示会などの催しが行われて始まったそうです。

その時の地元紙「福島民報」の記事が、昨日の朝刊に記載されましたがその内容が面白く懐かしかったのです

その大正9年の記事を要約すると

日本国民は時間を守ることを大切だと考えず、「〇△▢時間」と称し、ひどいのは2時間も3時間も遅れても平然としていた。
さらに、何度も催促されてから出だすのが当たり前と考える者まで居た。

これでは、大事な時間の損失であり、国としても大きな損失となるのでこの記念日を機に変えなければならない」

私の地域にも30~40年以上も前までは「〇△▢(地域)時間」というのがあり、集合時間に平然と遅れてくる人が居て、そしてそれが当たり前として誰も文句を言うこともありませんでした。(とんでもなく早い時間の人もあった)

江戸末期から明治・大正、来日した外国人からは、休憩ばかり多く時間を守らない日本人に対し「日本人は世界一の怠け者」と称された時代でもありました。

その時代の日本の名残が「〇△▢時間」として、私の地域にもあったのを思い出しました。(今もかな?)

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2024年6月17日 (月曜日)

遠藤敬止氏と鶴ヶ城と渋沢栄一氏

福島県会津若松市の鶴ケ城を後世に残すために尽力した旧会津藩士・『遠藤敬止(けいし)翁』の120年忌法要は6月15日(土)、宮城県仙台市の充国寺で営まれた。

遠藤氏は、嘉永4年(1851年)に会津藩士・遠藤清直の長男として江戸で誕生し、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いの際には会津軍として鶴ヶ城の籠城戦に加わり、賊軍として江戸にて謹慎生活を送ることになります。

その後、独学で英学を修め、慶應義塾に入って経済学を学び、大蔵省に銀行事務講習所が創設されると、講師として出仕することになります。

その才覚を渋沢栄一氏に見出されて第一国立銀行勤務後、第七十七国立銀行頭取となり、仙台商業会議所会頭ほか、会津銀行設立や学校の創立など多くの事業支援に業績を残します。

そして戊辰戦争の時に籠城戦の舞台となり、解体が決まっていた鶴ヶ城が明治23年(1890年)に払下げが決定すると、募金を集めて私財を投げ打って2,500円(現在の物価換算では1,000万~1,500万円。公務員給与換算では5,000万円)で鶴ヶ城は払下げを受け、それを旧藩主松平家に寄贈した会津にとって恩人であり「遠藤敬止翁」と呼びその功績をしのんで毎年命日に「遠藤敬止顕彰会」の主催で法要が行われている人物です。

つまり、現在の鶴ヶ城が在るのも遠藤翁のおかげなのです。

今年は没後120年の節目にちなみ、仙台市にある菩提寺の「充国寺」で開催られたようです。

法要は「遠藤敬止顕彰会」の会員ら約40人が参列し、新城猪之吉会長が式辞を述べるとともに、

  • 松平保久(もりひさ)氏=会津松平家14代当主
  • 小林寛氏= 七十七銀行常務、
  • 藤崎三郎助氏= 仙台商工会議所会頭
  • 室井照平氏= 会津若松市長
  • 渋川恵男氏= 会津若松商工会議所会頭

遠藤氏が創立などに携わった上記の組織・企業の代表の方々が追悼の言葉を寄せたようです。

こんなところに、現在の紙幣の顔の「福沢諭吉氏」と来月から新札の顔となる「渋沢栄一氏」交流があり、その影響を受けた人物がいたことに驚かされます。

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2024年4月21日 (日曜日)

歴代二本松藩主の墓所が一つになる

慶応4年(明治元年・1868)の干支は「戊辰(つちのえたつ)」でした、この干支の別の言い方は「ぼしん」であることから同年1月3日に西軍と東軍に分かれて始まった内戦を「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」と呼びます。

それから156年経った今年、戊辰戦争後に始まった会津戦争に参戦した二本松藩(現二本松市、安達郡、本宮市、郡山市の一部、福島市の一部)の歴代藩主の丹羽(にわ)氏が眠る菩提寺は二本松市に在る大隣寺になります。

しかし、この墓所には二本松藩丹羽家2代藩主の丹羽長次(にわながつぐ)と最後の二本松藩丹羽家藩主となった10代長国、11代から17代孝一さんまでの丹羽家当主の墓が存在していません。

長次らが埋葬されているのは東京の青山墓地なのです。

このほど二本松史跡保存会は、長次らが埋葬されている青山墓地の丹羽家墓所を、二本松市の丹羽家菩提(ぼだい)寺・市史跡丹羽家墓所の入り口付近に移設することを決定しました。

同保存会や同会の後藤宏迪(ごとう ひろみち)会長らは

「二本松市民の心のよりどころとなっている歴代藩主の墓が一堂に会することは大変意義深い」
「二本松市民が全員そろった歴代藩主の墓を墓参できることは大変素晴らしく、保存会として今回の事業に関われたことは大変光栄なこと」

「2カ所に分かれて埋葬されている歴代藩主を1カ所で埋葬することで、末永く墓所を保存することができる」

として、18代当主長聰(ながとし)さんと2年前から協議を開始し合意に至り、4月19日に同市で開かれた保存会の総会で正式に決定したそうです。

青山墓地にある台座を含め墓石、墓誌、慰霊碑2基を運搬し、大隣寺本堂脇と歴代藩公墓所参道階段の間に移設、費用は市の補助金を活用し、総事業費約800万円で整備するとのことです。

大林寺には、12~3歳の幼さで西軍と戦って死んだ「二本松少年隊」と隊長の墓もあり、これで菩提寺に一同がそろうことになります。

私も旧二本松藩内に先祖代々住むものとして感慨深いものです。

 

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2023年11月24日 (金曜日)

慈母観音

郡山市から国道49号線を走行し、猪苗代湖を過ぎて会津若松市の街並みが見え始めるところに至ると、目前に「会津慈母大観音像」の白い姿が目に入ってきます。

高さ57メートルもある会津慈母大観音像は、会津の観光施設として整備された「会津村」の象徴として昭和61年(1986)に建立され、何度かの経営危機などで管理者が変わりながら現在も「祈りの郷・会津村」の象徴となっています。

本来、観音様(観世音菩薩)には男女の区別は存在しませんが、この慈母観音は胸に乳飲み子を抱き優しく見守る姿はまさしく「慈悲深い母」をイメージさせます。

本来は慈母観音というのは日本には無く中国で発祥し作られていたそうですが、日本に伝わった際はその姿が生れたばかりのキリストを抱く聖母マリア像に酷似していることから、隠れキリシタンたちは「マリア観音」という名称で信仰の対象とし、幕府はそれをキリシタン取り締まりの証とした歴史が在ります。

建立した当時そんなことを思った人は、私を含めて誰もいなかったと思います。

そんな歴史を考えると、見れば見るほど聖母マリア像に見えてくるから面白い大観音像です。

 

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2023年11月16日 (木曜日)

会津とベートーベンの「第九」

大一次世界大戦中、旧会津藩士の長男として生まれた松江豊寿氏(後の第9代会津若松市長)は徳島県鳴門市の板東俘虜(ふりょ)収容所長を務めていましたが、その時に敵だったドイツ人捕虜を、上層部の反対意見を聞かず人道的に振る舞いでドイツ人にパンを焼かしたり、近くの人たちとの交流までさせました。

その行為は今では当たり前ですが当時は考えにくく、解放される際に松江豊久氏に待遇の感謝をこめてドイツジョン捕虜たちがベートーベンの第九合唱を贈りました。

これが、日本で第九が歌われるようになった切っ掛けとされています。

その感謝の第九の初演から100年めに合わせ、会津若松市の會津風雅堂前に松江豊寿氏の記念碑が実行委員会によって2018(平30)年秋に建立されました。

余談ですが、松江氏の実弟の松江春治氏は「角砂糖」の生みの親で『砂糖王(シュガーキング)』として、豊寿氏より早い1934年(昭和9年)8月 、同市に銅像が建立されています。

今年は建立から5年目の筋目として11月15日に、献花祭に来賓で招かれたドイツのクリスチャン・ウルフ元大統領が訪れ

「(松江豊寿が)当時、戦争相手だったドイツの捕虜を人道的に扱った。その姿勢は今の時代とって大切だ」

というあいさつを行い、市内の大塚山墓園にある松江家の墓も訪れたそうです。

同時に人類愛にあふれた松江氏の功績を振り返り、平和の尊さを次世代に伝え続けると誓ったそうです。

ウクライナにイスラエルのガザ地区、アフリカの各地で今も続く戦争に『人道的な扱い』は行われるはずもないことが映像として見られる現代に松江豊寿氏はあの世から何を思うのでしょうか?

と、毎年思うこの頃です

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2023年11月 5日 (日曜日)

棋士 升田幸三 対 GHQ

現在史上初の八冠を制した藤井八冠の影響で将棋界はちょっとしたブームで活気づいています。

ただ私にとって将棋界の大御所と言えば、大山康晴、羽生義治、そして歌や芝居で有名な坂田三吉の方々です。

特に羽生氏が出てくるまでの大山棋士の将棋界での凄さは印象深いものです。

その大山氏と死闘を繰り広げた「升田幸三」という、破天荒な名棋士が居たことを今日の朝刊で知りました。

そもそも、将棋は古代インドの「チャトランガ」というもので、そこから欧米などのチェスも生まれた競技だそうです。

チェスと将棋はとても似た競技ですが、大きな違いはチェスは取った相手の「駒」は使えないのに対し、将棋は取った駒を使用できるところです。

そのため、将棋では取得した駒の使い方で大きく局面が変化するため、コンピューターもなかなか人間に勝てないということが起きているそうです。

さて話は升田棋士に戻りますが、戦後にGHQに呼び出された升田棋士が将棋とチェスでGHQと大論争を繰り広げた挙句に論破したというエピソードが朝刊に載っていました。

その論争とは?

GHQ曰く
「我々がたしなむチェスと違って将棋が取った相手の駒を自分の兵隊として使う。これは戦闘で捕虜に戦わせるのと同じで捕虜の虐待で人道に反する

それに対し、
升田棋士は冷静に言い返す

「駒を使わないチェスこそ捕虜の虐殺だ。それに対し日本の将棋は捕虜を虐待も虐殺もしない全ての兵隊(駒)が生きている
さらに続けて
「チェスは王様(キング)が危なくなると女王(クイーン)を盾にして逃げる。武士道では命を懸けて妻女を先に逃すものだ」

じつに痛快で面白い話です。

ただ、この話は升田棋士が語ったものでGHQがわには無いエピソードだそうです。

升田棋士はアマ囲碁八段を持ち徴兵も経験している人物ですが、その徴兵に対しても「日頃の不規則な生活から規則正しい生活にさせられて死なずに済んだ」と言い放ったそうですから面白い人物です。

坂田三吉、升田幸三の二人から見たら藤井八冠はどう映るのでしょうか?

たぶん、宇宙人でしょうね。

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